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足のともし火(2005年)

あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。(詩篇119:105


 「足のともし火」は【きょうのみことば】の兄弟版として始めることにしました。これも毎週一度メールで配信することにします。あなたがもし【人生の何か】を探求しておられるなら、ご参考にしてください。【探求】は今、二つに大きく分類できます。ひとつは「自然」もう一つは「聖書」(→【自然と聖書】)です。この二つに共通していることは【規則性】です。前者は自然の中に規則性を見出しますが、後者は聖書を通して神の御心の中に規則性を見出します。この規則性を取得することによって、私たちはこの人生に「祝福の法則」と「破滅の法則」があることを見出します。ですからすべての【追及者】に、この「足のともし火」をお届けしています。これを探求のてこにしていただければ感謝です。ご希望の方は、牧師宛、メールをくださいますように。→【メールのご案内】

 

招き(2005.03.27)

 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示録22篇17節

 【イエス・キリスト】【救い主】として、すべての人を招いておられます。この招きがほとんどの場合無視されているのは、自分の人生で【自分の能力】を試す分野がまだまだあると考えているからです。しかし、時として【万策が尽き】てしまうことがあります。もうどこにも【出口がない】と思われるときこそ、この神の招きを聞くチャンスです。地平の道がすべてふさがっているように見えるとき、【天は無限】に開かれています。そこにあなたの救い主がおられます。そして、あなたを優しいまなざしで招いておられるのです。

【今日の祈り】
 父なる神さま。私は人生は自分で切り開くものと考えていました。しかし、本当は私の人生はあなたが用意されて、それに私を招いておられることを知りました。どうぞ私をお救いください。私をあなたの御名の中に入れてください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

安息(2005.04.03)

 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11篇28節

 【救い主イエス・キリスト】の招きは「安息への招き」です。【休ませ】と言われたのは【霊的な心の平安】のとこで、これを下さると言うことは、ご自分を【メシヤ】(救い主)として提示されたことと同じです。心の平安は【心の弱さ】によって乱されます。心の中は大あらしに翻弄される小船のように【混乱】しているなら、天の父なる神さまから遣わされた救い主が、あなたを平安へと招いておられることを知ってください。
 主がくださる安息(平安)は、説明するとすれば「世のものでない」(ヨハネ14:27)としか言いようがありません。これはご自分で受け取って経験するほかに、その素晴らしさを味わうことが出来ません。この平安を持った人が本当に救われた人、クリスチャンということになります。

【今日の祈り】
 父なる神さま。私の心は大あらしのように混乱しています。あなたが平安をくださるなら、私はそれを求めます。あなたのご慈愛によって、あなたのお招きにより、あなたの御元に参ります。私をあなたの安息に入れてください。イエスさまのみなによって、アーメン。

 

学び(2005.04.10)

 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11篇29節

 「安息への招き」の次にくるのは、「学び」で、これはキリストの【弟子】として【教え】を受けるようにとの招きです。人間ほど矛盾に満ちた存在はありません。人間ははたして賢いのか愚かなのか。これほどの科学技術と文明を誇る人間は確かにすばらしい。一方で、性懲りもなく争いと憎しみ合いで明け暮れています。何かどこかが狂っている。こうした人類に対して【天の父】は、御子である救い主を世に遣わし、「学びなさい」と招いておられます。こうして、【魂の安らぎ】が来るのです。
【今日の祈り】
 父なる神さま。私は自分の人生は自分で切り開くものと考えていました。どうか自分の自信がどれほどものもかを教えてください。どうか自分の能力の限界を知って、へりくだってあなたに頼り、あなたから学ぶ者にしてください。私は魂の安らぎが欲しいのです。イエスさまの御名によって、アーメン。

 

生きる(2005.04.17)

 イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。(マタイ4篇4節

 真実を知ろうとする者は、まず自分からはじめます。世に言う【自分探し】です。すぐ分かるのはパンを得ようとして一生懸命の自分です。その後ろにパンだけでは飽き足りない自分がいます。【人のことばで一喜一憂する自分】です。何かことばが欲しいですね。ぎゅっと抱きしめてくれる愛のことば、自分が何者かを知らせてくれる心を照らすことば、そんなものがあるのでしょうか。
 イエス・キリストは【神の口から出ることば】と言われました。もし神がおられたら、その方は語っておられるはずです。そのことばは私の魂にしみ込んで、たましいを充満するに違いありません。では、【神と向き合】って、自分探しをしようではありませんか。
 【今日の祈り】
 父なる神さま。あなたがもしおられるのでしたら、私に語ってください。私の魂を満たし、私の生きる道をはっきりと照らすことばを語ってください。また、私にあなたのことばを聞く耳を与えてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

新しい時代(2005.04.24)

 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1章15節

 【アダム以来】、人類は物悲しい数千年の歴史を過ごしてきました。しかし、主イエスの到来によって新しい時代が始まったのです。それは「時が満ち、神の国は近くなった」と表現されました。罪と汚れと失意の世に救い主が入ってこられました。人はまず【神不在】に生きる【心の闇】に気づかなければなりません。そうするなら、神さまは私たちのために【救い主】を派遣されたこと知るのです。
 主はまた続いて、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。【福音】とは、「あなたを救う方が来られた」と言う報せです。【悔い改め】て、すなわち、神さまに対する態度を変えて、福音を信じましょう。

 【今日の祈り】
 父なる神さま。今までの私の人生はなんと暗く、悲しく、むなしく、汚れていたことでしょう。それは「神の国」から遠くにいたからです。こんな私のために救い主を遣わしてくださいました。心から感謝します。私は救い主を信じて救われたいのです。どうぞお導きください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

新しい価値観(2005.05.01)

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5章3節

 【幸い】は誰もが求めるものです。ここから人は自分が、大切と思うものをそれぞれ思い思いに求めますが、それを手に入れたとき、それが本当に自分を豊かにし、幸福をもたらすものでないことに気づきます。人は神へと向かわないかぎり、心は貧しいままに置かれます。
 ここで、新しい価値観が必要となります。神さまが与えようとしているものを欲しいと思うことです。このためには新しい心がなければなりません。人は人生が自分の思うようにいかない時、悲しみ悩み惑い苦しみ悶えます。この時、自分の心の貧しさに気づき、神さまを求めます。神さまが与えようとする「幸い」はここからスタートします。なぜなら人はこの時、神さまを切実に求めはじめるからです。

 【今日の祈り】
 父なる神さま。今までは自分の願いがかなうことが幸せであると考えていました。しかしそれはあなたの思いと大きく違っていることを知りました。あなたは私の幸せの道を知っておられます。どうかそれを私が切実に求める者となりますように。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

新しい人(2005.05.08)

 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節

 新しい誕生によって新しい人が生まれます。それは「母の胎」からでない、御霊の胎から出てきたいのちです。人はこの二つ目のいのちを持つのでなければ、「神の国」を見ることも入ることもできません。新しい人は【新しい欲求】を持ちます。彼が求めているのは、【神の国の食物】「神の国の空気」「神の国の風景」です。
 人は自分に限界を感じることがあります。何をしても【行き詰まり】【挫折】し、つくづく【自分の未熟さ】にほとほとすることがあります。こうした時【神さま】と言う思いが起こり、【祈りたい気持ち】になったとき、神さまは【新しい世界】をかいまお見せになります。これが新しいいのちの着床です。新しい人はこうして次々と誕生してくることになります。

 【今日の祈り】
 父なる神さま。私は現在、自分の人生に行き詰まりを感じています。そしてこの人生の向こうに、新しいいのちが住まう新しい世界があるような気がします。もしそうなら、私も新しく生まれたい、そのいのちを私のうちに宿してください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

たましいの渇き(2005.05.15)

 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(【ヨハネ4章13,14節】

 イエスさまのことばには時々突拍子もない表現がありますが、それは主がご存知のことを私たちが知らない、という事情があります。しかもそれは人間の地上生活の範疇にない経験であるため、伝えることばすらありません。そこで主がよく使われるのが、誰もが経験していることを【譬えとして説明】することです。
 【水】はのどの渇きを癒しますが、決してたましいの渇きを癒しません。そのためには【わたしが与える水】と言うものがあります。「イエスさまください。」と言えばいただける【いのちの泉】となる水です。条件は、①自分のたましいが渇いていることがわかること。②まずその渇きを癒したいとの切実な願いがあること。③もうこれ以上は我慢できないこと。④イエス様のこの招きに本気で応じることです。ぜひ、この水を得てください。

 【今日の祈り】
 父なる神さま。私のたましいはカラカラに渇いています。辛くて辛くて仕方がありません。イエス様、癒してください。その水をください。あなたのおことばの通りにします。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

悲しむ者(2005.05.22)

  悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。(マタイ5章4節

 血筋、遺伝、環境、努力、幸運、こうしたことが普通、【幸福の条件】とされています。それに対してイエス・キリストは言われます。「悲しむ者は幸いです」と。それは【視点を変える】とこういうことになります。
 天に神がおられ、地に人は住み、小さな幸福を求めて【熾烈な争い】をしています。やっと手に入れた【冨、地位、名誉】などの幸せは、周囲の圧力から守るために大変な努力をしなければなりません。ついに戦いに敗れ何もかも失い、【失意のどん底】を見たとき、【心の奥底】から【神さま】との叫びが発せられます。その時なんと、そこに救いの神さまが立っておられるのです。
 ここに到達できるのは、本当の【人生の悲しみ】を知り、【本心の通り】に神に救いを求めたときです。ここに彼は、天の光によって【幸いへの道】を見出すのです。

 【今日の祈り】
 父なる神さま。私は人生の悲哀と無常と悲しみの中からあなたを求めます。あなただけが救いです。疲れ果てたとき、あなたが慰めとなってくださいます。私はあなたを求めます。どうか私の心に光を灯してください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

柔和な者(2005.05.29)

  柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。(マタイ5章5節

 人は生きて行く上で、少なからず自分への【セキュリティ】をかけています。他人に対して、組織に対して【用心する】ことはある意味で必要でしょう。もし、神に対してセキュリティをかけていたら、神さまとの接触は遮断されたままです。
 自分の【心の貧しさ】を知り、【人生の悲しみ】を知って、人はやっと【ああ、神さま】という気持ちになります。しかし、それでも自分の用心を解こうとしないなら、神さまがその人のうちに入り込む余地はありません。ですから、【心の戸】を開いて、神さまに向かって【心を開く】ことが大切となるのです。こうした心を持った人を「柔和な人」と言います。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。あなたは私の堅く閉ざした心を見抜いておられます。家族や友にも心を開いていないだけでなく、神さまに対しても心を閉ざしています。あなたの愛だけが私の心を開くことが出来ます。どうか私を柔和な者としてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

義に飢え渇いている者(2005.06.05)

 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。(マタイ5章6節

 愛に渇いている人、情に渇いている人はいます。でももっと深いところでは、神の愛を切断している義に気づく人です。その人は「義に渇く」ことになります。ここで言う義とは【神さまとの関係】のことですが、「神さまがわからない」「神さまが見出せない」ことを深刻に思うようになれば、その人は神さまと非常に近いところにいることになります。
 神さまとの関係を求めるようになれば、もうすぐ光明がさしてきます。その光は心を照らします。そして神さまとの間を遮断している心の闇が明らかとなります。「神さま憐れんでください。」「神さまお赦しください。」「神さまお救いください。」こうした祈りを神さまは決して見過ごしにはなさいません。やがて、その人は【神さまと和解】し、心に神さまの恵みが流れ込んできて、【満ち足りる】のです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私があなたを見出せないのは、あなたとの間に仕切りがあるからです。それが何かさえもわかっていません。どうかそれを取り除き、あなたとの関係が義とされて、私の心を満ちたらせてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

あわれみ深い者(2005.06.12)

 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。(マタイ5章7節

 本当に「あわれみ深い」と言われる方は神さまだけです。人間は最後のところでは「自己防衛」しますから、人の中には本当の意味で「あわれみ深い者」はいません。
 ですから、「あわれみ深い者」とは、神さまにあわれみを求める者のことです。神さまのあわれみを必要と感じない人は、人へのあわれみを示すことが出来ない人です。しかし、自分の無力さを無慈悲さを知った人は、切に切に神さまにあわれみを求めます。神さまだけが私にあわれみを示してくださることを知っているからです。
 もし私が神さまに期待し、神さまにあわれみを求めるなら、神さまは豊かにあわれみを注いでくださるとともに、私にうちに「あわれみの心」を与えてくださり、神様の力によって「あわれみ深い者」としてくださるのです。なぜなら、その人自身、神さまからあわれみを受けているからです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私をあわれんでください。私の弱さ、罪深さ、汚れをお怒りにならないでお赦しくださり、あわれんでください。あなたのあわれみによって私を生かしてください。あなたのいのちをお与えください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

心のきよい者(2005.06.19)

 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。(マタイ5章8節

 「心のきよい者」が、そんな人がいるでしょうか。このことばはほとんどの人に【絶望を宣告することば】です。世界中がうめき悲しんでいます。助けを求めて叫んでいます。でもその叫びはとどきません。神はどこにおられるのでしょうか。その姿を見ることはできません。
 神はあまりにもきよいお方で、汚れた者には近づくことも触れることも出来ません。嫌悪して御顔をそむけておられます。神と汚れた人との間には深い溝が横たわっています。このため人々の努力はむなしく、それでもあきらめるわけにはいきません。
 ただひとり、きよいお方が神と私たちのはざまに立たれました。全人類の罪を背負って十字架の上で祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。」神はただ一つこの地上で耳を傾けることのできる祈りを得られました。これを突破口として【救いの道】を開かれました。だから私たちは向きを変えて、この救いの道から入りたいのです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私の汚れに目をとめないでください。私はあなたを恐れて、十字架の陰に身を避けます。どうか私をあわれみ、赦し、お救いください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

平和をつくる者(2005.06.26)

 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。(マタイ5章9節

 地上の平和が崩れてしまいました。それは人の心から【中心】が失われたからです。ですからほとんどの人は【自分を中心】に置こうとします。このことがかえって混乱を招いています。強い人が人々の心を束ね、秩序を保とうとします。これが国家と言うものですが、決して安定したものではありません。世界の平和を保つことはもっと難しいことです。
 人々の光として、この地に平和をつくるお方として神の御子イエス・キリストさまが来られました。主イエス様は神さまを天の父と呼び、その深い愛を教えてくださいました。にもかかわらず、人々はこの方を疎み、ねたみ、十字架にかけてしまいました。こうして人々は平和を拒否してしまいました。
 ところがこの【キリストの十字架】こそが平和の礎となったのです。この十字架による【神との平和】を受け入れ、神さまを【心の中心】としてお迎えしたとき、その心に平和が訪れます。この波紋が人から人へと広がっていくなら、人々の心の領域において平和が広がっていくのです。この輪に入って、平和をつくる者となった人はまことに幸いです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。イエス・キリスト様の十字架の赦しを受け入れます。どうか私の心の混乱を治め、平安を与えてください。どうか私がこの平安の中を生きることによって、主イエスさまが救い主であり、平和の礎となってくださった証人としてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

義のための迫害(2005.07.03)

 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。(マタイ5章10節

 【義】は聖書の用語では【神さまとの正しい関係】を意味しますが、一般的には「正しいこと」を意味します。「善行」「誠実」「正直」「親切」は、【正しいこと】ですから人々に喜ばれるはずです。
 ところが、本気で正しいことのために生きようとすれば、喜ばれるよりも憎まれることが多いのです。自分への親切は喜ばれます。でも、親切に生きている人の生き方が、人間の義務として責任としてその人の良心を刺激するようなことがあると、嫌うのです。
 神さまを信じている人で、神さまは「人が正しく生きること」を望んでおられることを真剣に受け止め、そのように生きはじめるなら、嫌われます。(この反対は馬鹿にされます。)この場合、【正しいことへの嫌悪感】は、「信仰への迫害」へと発展することがあります。それでも、【天の御国】を切実に求める人はそうした生き方を選び取ります。主イエス様は「義のために」いのちをかける人を幸いと言われます。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私は自分のいい加減さが嫌になりました。本当は正しい生き方がしたいのです。どうか「義に生きる」力をください。そして、人の目を恐れない力もください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

喜びなさい(2005.07.10)

 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5章12節

 私たちは何を喜んだり、幸せを感じたりするでしょうか。もし【富や地位】【名誉や名声】であったら、【欲の争い】に巻き込まれ、【生き地獄】に陥ることがあります。もし【快楽や肉欲】であったら、家族を泣かせたり自分でも【心の悩み】を抱えることになります。
 主イエス様は【天の報い】について語られました。しかもそれがどれほどのものであるかを、預言者たちがこの報いのために【迫害】に耐えたと言われます。地上にいる限り【天】は私たちの経験の彼方です。でも地上に失望し、天から来られたイエス様に期待する者にとって、「天」は大きな【魅力】です。金メダルのように【見える目標】ではなくて、まだ見えないものであるから、なお【期待】も大きくなります。この期待があれば、地上のどんな苦しみにも耐えることが出来るのです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私はまだ地上にあるものに魅力を感じます。それが矛盾しており、苦痛を与えるものであることを知りながらです。どうか神様の手にあり、無限の富である天の報いを求めます。またそれを切に求める者としてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

世界の光(2005.07.17)

 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 (マタイ5章14節

 人間がどのように生きることが【理想的な姿】なのか。主イエス・キリスト様が描いておられるイメージは明白です。【大自然】が雄大で、創造の神の力を誇示しているように。【生き物】がいのちをたぎらせて、いのちの神を賛美しているように。人は天の父の愛に応えて、明るく生き生きと、永遠を目指して生きるべきです。
 天の父はそのよう生きるように、人間をお造りになりました。しかし、現実はそうではありません。労苦の汗と悲哀の涙と生きることへの諦めが心に映し出される神の姿を曇らせています。
 このようなことは非常に残念です。最も残念がっておられるのは天の神さまです。だからこそ、世に救い主をお遣わしになりました。ですから早く救い主の恵みをいただいて、【全霊全生を込めて】神の愛に応えて生き、「世界の光」として、神の愛を輝かす者となりたいものです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私の重荷を下ろしてください。あきらめに希望の光をさしてください。私の心をきよめ、あなたの御姿を映してください。私があなたの御心を受け取って、そのように生きる者にしてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

良い行ない(2005.07.24)

 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 (マタイ5章16節

 「良い行ない」と言うものは奇妙なもので、する方もされる方も気まずいものです。目立ちすぎると窒息しそうです。人を意識しすぎるとこうなります。「良い行ない」は人にではなく、神さまへの【応答】として行うなら、新鮮な空気のようになります。
 「天の父をあがめるようにしなさい。」ここに人生の意義があるような気がします。考えても分からないことが、実行すると実感が出てきます。人はどうやら、神に応答しながら生きるように造られていることが実感として分かります。
 神さまはあなたが良心的に正直に親切に生きることを望んでおられます。この神さまの気持ちに応えることで、人生の不可解など吹っ飛んでしまうように、すがすがしくなります。ますお祈りしましょう。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私は今まで、神様のことは何も考えていませんでした。これからはあなたに応答する生き方をします。「良い行ない」をする力など私にはありません。どうかそのよい行いをする力をください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

一点一画(2005.07.31)

 まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ5章18節

 高層のビルから足を踏み外したら、どんなに泣き叫んでも、【落下の法則】を変えることは出来ません。これと同じように、悪は「一言のうそ」でも、【破滅への道】となり、律法の一点一画も変えることは出来ません。この世と人生には【決定論】が覆いかぶさっています。
 私たち人間は、こうした決定論の中で窒息しそうな生を余儀なくされています。あるのは、「落ちないように気をつけましょう」「悪い事はしないようにしましょう」「律法と法律は破らないようにしましょう」があるだけです。
 こうした閉塞状態の中で、もし神さまのあわれみを信じることが出来、神さまの【全能による奇跡】を信じることが出来たなら、救いの希望もわいてくるのではないでしょうか。愛と憐れみの神さまを見上げたいですね。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私の環境も、私の心の中も、一点一画からはずれ、破滅に向かってまっしぐらです。もしあなたに憐れみがあり、救いがあり、私を救ってくださるお心があるならば、どうかお救いください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

天の御国で、偉大な者(2005.08.07)

 だから、戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。(マタイ5章19節

 この世で【偉大な者】となりたい人は多くいます。そう簡単ではありませんから熾烈な戦いがあります。そのうちに心が荒んで、何が何でもと思っているうちに、心を鬼にしていることにもなりかねません。こうした人はこの世は奉仕の場所であることを忘れているからです。神さまはこのような人の人生をお助けになりません。むしろ失敗へと追い込まれます。
 「天の御国で、偉大な者」になりたいと思う人は少ないでしょう。神さまはこのような人を喜ばれます。大いに助けてくださいます。なぜなら、【戒めを守る】ことは神に奉仕し人に奉仕することだからです。
 ただ、戒めを守る力は人にはありません。神さまの御心に生きるために、切に切に祈るなら、神さまは私たちの心の中にまで入ってきてくださって、正しい人生を生きる力となってくださるのです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私はもうこのようでは何の希望もありません。生きる意欲すらなくしています。もし、神さまが助けてくださり力を与えてくださるなら、天の御国で偉大な者となるために、あなたに従います。私をお救いください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

殺してはならない(2005.08.14)

 昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 (マタイ5章21節

 十戒の「第六戒」を犯すことは、人類に深刻な影を落とします。主イエス様はこれが「腹を立てる」と言う心の問題であると言われました。そうすると、これは一部の殺人者だけの問題ではなく、「私の問題」ともなるのです。
 確かに、世間を批判し社会をのろっているだけでは、この問題は解決しません。私に出来ることは「私の問題」として向き合うことです。私がどうしたら人を赦せるか。もっと広い心を持てるか。人に対して愛を持つことが出来るか。これなしに心の問題の解決はありません。
 ここまで来ると、どうしても救い主が必要です。神さまがおられるなら、この心の問題を何とかしていただきたいものです。イエス・キリスト様はここに、私たちを導いてくださっているように思います。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。「殺してはならない」は、私にもかかわることであることが分かりました。もしかすると大変なこともしでかしそうです。ああ、神さま、私をお助けください、お救いください。救い主をお与えください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

最後の一コドラント(2005.08.21)

 まことに、あなたに告げます。あなたは最後の一コドラントを支払うまでは、そこから出ては来られません。(マタイ5章26節

 主イエス様は人間関係を壊し、誰かと仲たがいしている人に対して、重大な警告を与えておられます。「最後の一コドラントを支払うまで」と言われます。「一ゴドラント」とは一デナリの64分の一、「一デナリ」とは一日労働賃金のことです。
 夫婦関係、親子関係、人間関係が壊れたのを相手のせいにし、人生をのろい神をのろい、自分を悲劇のヒーローにしているとしたら、生きているときも死んだ後もその地獄から出ることはないと言われます。
 人間関係は神との関係のバロメーターです。「仲直り」は相手は受け入れなくても、自分はすべきです。「わびること」「ゆるすこと」をした上で、神さまに向かって悔い改めるなら、地獄から出ることが出来ます。地獄は態度次第で条件付だからです。人を赦すなら、神はキリストの十字架に免じてあなたを赦してくださるのです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私は自分の人生を嘆き、悲劇のヒロインにしていました。お許しください。私を人を恨む恨みの鎖から解き放ってください。地獄から引き出し、あなたの御国に入れてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

心の中で(2005.08.28)

 しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。 (マタイ5章28節

 人間は本質的には宗教嫌いです。本当の宗教は「心」を問題にするはずだからです。そこで、世の中には心ではなく、「儀式」「善行」「努力」「修行」などで、神に近づき、たましいの欲求を満たすものが現われます。しかし、神は人の心を問題にされます。
 ひとたび自分の心の中を見れば、その破綻状態は明らかです。主は人の心の中にある「情欲」を例として取り上げられましたが、自分の心でありながら、とても直視できる状態ではありません。
 たとえ「右の目」を抉り出しても、たとえ「右の手」を切り捨てても、そんなことで心はどうすることも出来ません。人はただただ、私の心を見通される神さまに、「憐れんでください」と叫ぶ以外に道はないのです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。あなたは私の心の中まで見通されるのですか。それで私をお怒りになられるのですか。どうかその怒りをとどめ、私を憐れんでください。私の不正直をお許しください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』(2005.09.04)

 だから、あなたがたは、『はい。』は『はい。』、『いいえ。』は『いいえ。』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。(マタイ5章37節

 人の心に不真実が入ってきて、『はい』が『はい』、『いいえ』が『いいえ』でなくなってきてから、人と人との関係の間に混乱が入ってきました。最近はコンピュータが普及されるようになって、この意味がますます人々に理解されるようになりました。
 自分の心を隠すためか、他人に強要されたためか、心の中の「はい」が、口では「いいえ」と言うようになりました。そのため、人の心の中も、社会も混乱してきました。すべては人の心から神さまを追い出し、さま抜きの世界をつくったためです。
 この混乱を取り戻す道は唯一つです。世界中の人々が自分の心に神さまをお迎えすることです。心を制御していただくことに同意することです。しかしこれは現在ではほとんど不可能に近いことでしょう。出来ることは「私が」心を開いて神さまをお迎えし、「はい」は「はい」の実践を始めることです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。あなたは私の心の中に不真実があることを見抜いておられます。私は自分で自分の心を制することができません。どうか私の心に入ってくださって、私を真実な者に作り変えてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

目には目で、歯には歯で(2005.09.11)

 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。(マタイ5章38,39節

 「反座の法」と言われ、今では人々に知られています。刑法として大変厳しいものですが、古代では「ハムラビ法」にもあり一般的でした。これは刑罰に一定の枠をはめるものとして、モーセが律法に取り入れたものです。しかしキリストはこれに一歩踏み込まれました。
 「悪いものに手向かってはいけません。」と言われました。これは今度は別の厳しさがあります。「無抵抗主義」です。キリストは「神の国」を理想とする者はこれに徹することを主張されました。でも、とても不可能なことです。
 しかしよく考えると、悪に対して悪を報いている限り、悪の循環を断ち切ることは出来ません。これでは永遠に神の国を迎えることは出来ないでしょう。ですから今の曲がった世から脱出するためには、悪の循環を断ち切るしかありません。キリストはそれを主張されたのです。
 この不可能に立ち向かうためにも、私たちは神さまの憐れみを求めなければなりません。切に祈ろうではありませんか。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。何と悪がこの世界に横行していることでしょう。その悪に触発されて、私の心の中にも悪が渦巻いています。どうかこのろいから世界を私をお救いください。私に悪に対処する力をお与えください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

敵を愛し(2005.09.18)

 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5章44節

 「神の国の理想」を実現するために、キリストが提示された最後の戒めは「敵を愛し」です。ここまで来ると、「神の国の実現」は人間にはとても不可能であることが分かってきました。人々が考えている「神抜きの世界」であっても、「敵を赦す愛」なしでは、理想的な世界を実現することは難しいでしょう。
 人の心の問題をなおざりにしては、どんなに知識を積んでも、物資を豊かにしても、技術を発達させても、どろどろした争いの絶えないこの世界を変えることは出来ないのです。
 「敵を愛する」ことは感情からは出てきません。母性も友情も「敵を愛する」ことはできません。これは別の種類の愛、これは心に神の愛が注がれて、神の愛に満たされて、神を愛する愛から、神の愛の応答として、はじめて敵を愛することが出来るようになるのです。
 私たちは罪深い人間です。心の闇、世の行き詰まりから脱却するためには、神さまの憐れみが必要です。切に求めたいものです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。敵を愛することなど、私には出来ません。しかしそれなくしてはこの先の歩みは闇です。どうか主よあなたを信じます。私の心をきよめ、聖なる愛を注いでください。あなたのみこころに沿う者としてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

天の父(2005.09.25)

 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5章45節

 人が大人になって経験するひとつのことは、心から頼れる父をなくした寂しさです。まだ経験していない人もいずれ経験することでしょう。だれにも頼らないで、一人で生きていることは大変なことで孤独なことです。
 たとえ父が存命でも、もう抱きしめられたり、腕にすがったりすることは出来ません。そうした中で、天に父がおられることを信じられる人はまことに幸いです。「父の子どもになれる」とは、大変困難ですが、やる価値はあります。
 人を差別しない。どんなことも赦す。敵を愛する。こうしたことができてこそ、「父の子どもになれる」のです。「天の父」がいてこそ、人は本当の充足を持つことが出来ます。父を心にお迎えしようではありませんか。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。もう人を差別はしません。どんなことでも赦します。たとえ敵であっても愛します。どうか私の天の父となってください。私は弱い者です。どうか私を抱きしめて慰め、私に力をお与えください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

完全でありなさい(2005.10.02)

 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。(マタイ5章48節

 天の父が、私たち人間に求めておられる理想の姿はこれです。十戒において示された神さまのみ心が、その輪郭をはっきりと浮かび上がらせました。けれども、人間がこの標準に達していないことは明らかです。
 天の父が求めておられるのは、私たちが天の父のように「完全」になることです。もちろんそれは能力においてではなく、心、動機においてです。「敵を愛する愛」「すべてを赦す愛」、どれ一つとってもほとんど不可能なことばかりです。
 私たちが、自分にはとても不可能だと知ったとき、どうすればよいのでしょうか。「天の父」は社長ではありません。教師でもありません。「父」です。もっと甘えてもよいのです。「お父様。憐れんでください。助けてください。力を与えてください。」と。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。あなたは何と崇高な標準を私たちに示されるのですか。そんなことはとても不可能です。でも、あなたの御心にそいたいと思います。どうかお助けください。力を与えてください。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

善行(2005.10.09)

 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。(マタイ6章1節

 「天の父のように」と言えば「善行」、「善行」と言えば「親切」、「親切」と言えば「施し」、これが昔の人が考えることでした。でもせっかくの善行も動機を見られる神さまから見れば、嫌悪でしかありません。「良いことをしたい」と言う心すらも汚れているのです。
 こういう人は親切の報いを求めています。「礼を言って欲しい」「褒めて欲しい」そう思っています。ですから何もないと腹が立ちます。神さまはせっかくその人に「親切をするチャンス」をくださったのに、これでは台無しです。実際、施しを受けた人も、こんな高慢な心でされたのなら、屈辱感を憶えるだけです。
 私たちは自分の「良いことをしたい」という思いすらも汚れていることを知りましょう。そして「善行」をするときも、神さまの助けを求めましょう。人に報いを求めず、神さまに報いを求める、そういう「善行」をすることができるために。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。人間は何と汚れていることでしょう。そして私も汚れています。どうか私の心をきよめてください。そしてあなたの報いを信じて「善行」が出来ますように。イエスさまのお名前によって、アーメン。

 

施しをするとき(2005.10.16)

 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。(マタイ6章2節

 「山の上の説教」は、「天の御国」についての叙述です。人はこの世のいのちで終わるものではありませんから、天の御国を目指さなければなりません。そして、天の御国に入るためには、心の準備が必要です。心を変えること、すなわち、価値観の転換が必要です。
 善行の最たるものは「施し」ですから、天の御国を望む人は当然施しに励みます。富む人も貧しい人も自分の力量に応じて行えば、「愛の分かち合い」によって、人の世の差別も美しいものとなるでしょう。差別はもともと、神さまがご自分がお造りになった世界を飾るバラエティであるからです。
 しかし、この施しにも不純な心が入ってくると忌まわしいものとなります。善行の報いは神さまに求めるべきであるのに、この世から受けようとします。「人の賞賛」を期待するのです。こうして人は「善行」の中にも「神不在」を露呈してしまいます。神さまに「神不在の心」を癒していただくために、憐れみを切に求めようではありませんか。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私はこの世に生きている限り、天の御国を望みます。ですから私を愛に富む者としてくださり、愛の実践の機会を与えてください。その中で、この世からのものでなく、神さまに報いを求めます。この思いをお助けください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

祈るとき(2005.10.23)

 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。(マタイ6章5節

 神が求めておられる標準は、決して人間の力で達成されるものではありません。ですから、「人間らしく生きる」ことから「不可能」を理由に避ける生き方は、心に負い目を持つことになります。聖書はこうした人の心の状態を「やみ」と言います。
 人が人として生きようとするなら、「祈る必要」があります。それは、自然に内在する力を引き出すのでなければ、「文明の発達」がありえなかったことと同じです。人の道徳的な力は、神さまから引き出さなければ、標準に達することは出来ません。
 ところが祈りそのものにも、人の心の邪悪性が入りこんできます。それが「偽善者の祈り」です。人目を意識した祈り、自分の「信仰深さ」をひけらかす祈りです。信仰の入り口におられる方は、まだ関係のことと思うでしょうが、「信仰を躊躇する」「信仰を恥じる」心があれば、それが裏返って「信仰を誇る」ことにもなるのです。
 信仰の道を進むためには、「祈り」は欠かすことが出来ませんが、ここにも、神さまの憐れみを求めなければなりません。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。あなたの標準は何と高いことでしょう。自分の力でそこに到達しようとすることは何と愚かなことでしょう。これからは人を意識しません。ひたすらにあなたを求めます。どうか憐れんでください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

私たちの父よ(2005.10.30)

 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。(マタイ6章9節

 9~13節は、「主の祈り」と言われている部分です。クリスチャンたちはこの祈りを、主ご自身が直接教えてくださった祈りとして大切にし、公の集会において、個人の祈りにおいて用います。この祈りは「呪文」ではありませんから、単に口で唱えるだけでなく、その内容を知って祈りの手本とすることが重要です。
 主イエス様はまず、祈りの時には「天にいます私たちの父よ」と言って、神に向かって呼びかけることを教えておられます。なぜなら、祈りは「神さまとの会話」だからです。会話の相手である、「天のお父様」をしっかりと意識することが重要です。でなかったなら、祈りは心の呟き、独り言になってしまいます。
 天に神さまがいて、地上の私がいる。この関係があってはじめて祈りが成立します。山に向かって叫んでも、山彦しか戻ってきませんように、相手が無機物であるなら、祈りは空しいものとなってしまいます。ですから祈るときには、神さまに向かって、すなわち、「私たちの父」に向かって祈ることを意識することからはじめることです。私の祈りを聞き遂げてくださる方を、しっかりと意識するためには、しっかりとした呼びかけをしてみることです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。天にあなたがおられます。私の霊が、このことをしっかりと捉えることができますように、天にあなたがおられ、地に私が生かされていることを、今日も忘れることがありませんように、お導きください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

御名(2005.11.6)

 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。(マタイ6章9節

 御名は、「神の名」です。名は実体を表わします。ですから人は「名」「名前」「名称」「名詞」を聞くとき、いろいろな概念、感情、思いが呼び起こされます。神の名を聞いたとき、また語るとき、「神を神として」の正しい位置に置くことが大切です。聖書には御名に関して、ひれ伏し、礼拝し、恐れ、賛美、感謝などが記述されています。「御名をみだりに唱えてはならない」と言われています。もし「神の名」を聞いて、無関心、憎悪、嫌悪、疑念、軽蔑を感じるなら、その人は神と正しい関係にありません。ですから、「御名」を聞くとき、私たちは自分の心が探られるのです。すべての人は「御名」の前に立ち、自分の心の本当の姿を知り、神さまに憐れみと救いを切に求めるようにしましょう。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私はあなたの名を聞いても、まだ漠然としたものしか感じません。私があなたを信じ、あなたのご愛を受け取ることが出来るために、あなたのお姿を私の前に現してください。あなたを知りたいのです。イエス様の御名によって、アーメン。

 

【神を崇める】(2005.11.13)

 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。(マタイ6章9節

 私たちは人を称賛することがあります。この「称賛」が神さまに向けられたとき、「神を崇める」に近い意味を持ちます。反対に、ほとんどの人の場合、生活の中で「神を意識する」ことがありません。無視していると言ってもよいでしょう。無視できない方を無視して生きている。これがほとんどの人の場合の実態です。
 ローマ人への手紙では、こうした事態が「神の怒り」(1:18)を招いている。と言明しています。世界がこのような状態である限り、人の心の邪悪は荒れ狂い、世を住みにくくします。大地は揺れ動き、ウィールスは逆襲し、自然界は制御不能の状態となり、世の争いは耐えることがありません。世界を良くしたいという人々の良識の努力はことごとく無に帰します。
 ですから、主イエス・キリスト様は、「御名が崇められますように」祈ることを要請されました。私たちは毎日、神と人との和解がなるために、これを切に祈り続けたいのもです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。あなたは人々から侮辱されておられるのですか。それを忍耐しておられるのですか。ですからあなたの御怒りはやまないのですか。そうした中で、私は何ができるでしょう。私は自分の罪を悔い改めます。あなたを信じます。どうか、私に関するあなたの怒りをお静めください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

【御国】(2005.11.20)

 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6章10節

 「御国」は「天の御国」「神の国」とも表現されています。ここは「王国」で、神の支配がおよんでいる領域のことです。地上にも多くの国々があり、それぞれの政府によって支配されています。それも今しばらくの間のことで、やがて「御国」にとって代えられます。
 その物理的な概念を聖書から読み取ることは困難です。しかしそれが未来には物理的に存在するようになることは、死者の復活が「からだの復活」であるといわれていることから、推論することができます。
 現在は「霊的に」それは存在しています。「悔い改め」て、「キリストを受け入れた者」の心に、「神の支配領域」があるからです。キリスト者たちは「神の御心」に添う生き方をしたいと切に願います。それは彼らが「御国の市民」であるからです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私は地上の住民です。ここでは本当の満足を得ていません。もし御国と言うものがるあなら、私をその御国の住民にしてください。そして私の魂をあなたの支配と愛によって満ち満ちたものとしてください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

【御国が来る】(2005.11.27)

 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6章10節

 地質学は地球上にいろいろな時期があったことを明らかにしています。人間の今のような生活形態がいつまでも続くと言う保障はありません。また次の時代が来るでしょう。主イエス様は【御国が来ますように】祈ることを教えています。
 人類の未来は決して明るいものではありません。現代の脅威となっている温暖化と核兵器は、人間が誇る知識と知恵からでたものです。人の欲望を自制し、思いやりを第一とすれば、この脅威は避けられるのに、そうする見通しはありません。
 だから私たちは、神さまによって人の心を支配する「御国」が来ることを祈らねばなりません。ここにしか人類の希望は残っていません。人々は自分の愚かさと罪深さを悟り、ギブアップして切に神を求めるなら、御国は来ます。ここに私たちの希望はあるのです。祈りましょう。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。人間は愚かにも心から神さまを追い出してきました。その結果、現代のような出口のない時代を作り出してしまいました。私は切に祈ります。どうか「御国が来ますように」。イエス様の御名によって、アーメン。

 

【御心】(2005.12.04)

 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6章10節

 主イエス様は「御心は天で行われている」と言われました。私たちが祈るとき、「御心」を知り、それを求めることはとても大切なことです。私たちは「御心」を知ろうとしません。ただ闇雲に「自分の願い」を祈るだけです。これではただ混乱に混乱を加えるだけで、神さまが私たちの願いを聞き遂げようとしても、難しいこととなります。
 「御心」は、「ご計画」の中にあります。神さまの愛がすべての人の心に受け入れられ、宇宙の全域に行き渡ることです。やがて【新天新地】がやってきます。すなわち、「神の国」(神の支配)が全宇宙を覆うのです。
 人間は理想を掲げて何千年も歴史を綴ってきました。未だにそれは実現していません。「世直し」を繰り返しているだけです。早く「御心」に心を向けたいと思います。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。私たちが善を願い、幸せを願ってもそれが来ないのは、御心に心をお留めていないからであることが分かりました。どうか私に御心を教えてください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

【天の風景】(2005.12.11)

 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。(マタイ6章10節

 主イエス様は、ここで私たちに「天の風景」の一端を見せてくれています。そこは、隅から隅まで「御心」が行われています。天は地上とは違って、「御心」が充満しています。そこはどんなにすばらしいところでしょう。
 私たちは地上に生きる限り、地上の空気を吸って生きています。波風を見て心を動揺させることがあります。心配と不安と恐怖が襲ってきたとき、「神さま」と叫びます。天を見上げます。そこは打って変わって「静けさ」があります。私たちが祈って叫んだとき、静けさの天の空気がたましいに流れ込んできます。こうして私たちは地上にあって、天を味わうことが出来るのです。
 しかし、そこで終わってはなりません。御心が、「地でも行われるように」祈らねばなりません。地上を良くする、この世を良くするとは、御心が地でも行われるようになることです。私たちの人生はそのためにあるのです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。あなたは私が祈るとき、すぐに「平安」を与えてくださいます。これは天で御心が行われている平安であることを知りました。どうかこの地にも、御心が行われますように。イエス様の御名によって、アーメン。

 

【日ごとの糧】(2005.12.18)

 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。(マタイ6章11節

 神さまは人間が地にあって「生き物」であることをご存知です。【栄養と水と空気】、それに体温を保つ必要をご存知です。食を求め、水を求め、からだを覆うものを一生懸命に得ようと努力している生き物であることも十分ご存知です。
 祈るだけで、それらが天から降ってくるとは、誰も思わないでしょう。でも、自分の力だけでそれを獲得しなければならないとは、これも辛いことです。どれだけ蓄えても安心できないでしょう。
 「日毎の糧」を天の父に祈って、天の父が与えてくださる。そう信じることが出来たら、不安は解消します。安心してもっと霊的に、良心的に生きることが出来ます。私たちの人生を汚しているものは、実はこの「不安」なのです。
 神さまがわからないと言う前に、まず、「日毎の糧」を祈ることから始めましょう。私が生きる限り、天の父がこれを保障してくださると信じましょう。心に平安が来ます。このように、神さまは私たちに近づいてくださるのです。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。今日も私たちに日毎の糧をお与えください。そして、心に余裕を持って、もっと人間らしくはつらつと、この地上を生きることが出来ますように。イエス様の御名によって、アーメン。

 

【負いめ】(2005.12.25)

 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6章12節

 動物なら、本能に従って「日ごとの糧」で生きていればいいのです。でも、人間は違います。子を産んで育てることは動物はやっていますが、人間は「もう嫌だ」と言って子育てを放棄できるのです。でも、そんなことをしたら、心に大変な負い目を負わなければなりません。
 人間として生きる上で、「負い目のない生き方」はとても大切です。しかも難しいことです。ほとんどの人は負い目や心の傷を負いながら生きていると言えるでしょう。いったい誰に対して負い目を負っているのでしょうか。「私たちの負い目をお赦しください。」と言う祈りは実際的で、切実な問題です。
 イエス様は、こう祈ることを私たちに教えてくださいました。天の父が「赦し」を用意してくださっているからです。たま、「赦し」以外には「負い目」を解消する方法がないからです。また人の魂の奥底では、富地位名誉以上に、「負い目の赦し」を願っているからです。今日も忘れずに、この祈りをささげましょう。

 【今日の祈り】
 天の父なる神さま。人の心の神に対する無関心、義務に対する無責任、哀れに対する無慈悲によって圧倒されています。どうぞ「負い目」をお赦しください。心にあなたからの平安をおあたえください。イエス様の御名によって、アーメン。

 

続いて「足のともし火」(2006年)

 

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