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礼拝(2008年10月19日)

『主による選び、主による任命』ヨハネ15章13~17節)2008、10、19(第三聖日聖別礼拝)

一粒の麦としての主のいのちの最初の実は主の直弟子たちであった。そのいのちは代々受け継がれてきた。今の時代で受け取ったのが私たちである。私たちもこのいのちを実らせることができるとすれば、主の友とならなければならない。

Ⅰ 【主のご計画】
①一粒の麦として。
* 主は十字架によって、一粒の麦として地にいのちを注がれた。それは多くの実を結ぶためであった。主はこの2000年間、この地上に目を注いでおられたが、主が夢見ておられたのは、教会の宣教によって、たわわに実る魂の大収穫である。
②キリストの友。
* 「命じる」と言う言葉は主従関係を指している。ところが主はそれを行なうなら友であると言われた。主と私たちとは心を一つにする、と言う意味で友である。主のご計画はしもべによって達成されるのではない。友だから自分のこととしてすることができる。
③御心を知る者。
* それは主が御父の御心を知らせてくださったからであり、弟子たちはそれを理解したからである。御心を理解した者にとって、福音を伝えることは自分の仕事である。誰に命じられたのでもない。誰が何と言おうと私がするべきことである。

Ⅱ 【選びと任命】
①主による選び。
* 聖書には選びと言う思想があるが、私が人として今生きていることも選びである。さらに御救いを受けてクリスチャンとして今あることも選びである。何を基準にして選ばれているのか、それは分からない。それは深い神の御心に中にある。
②主による任命。
* しかし選ばれたとは、任務のために派遣されること、すなわち任命されたことを言う。十字架によって注がれたいのちが、収穫として刈り取られるために、主は私たちを選び任命された。しかもこの任務を全うするための力も備えられた。
③祈りの約束。
* この任務の達成のために、祈りが聞かれるとの約束が与えられている。今の神不在の世の中に福音を持って出て行こうとするなら、神の力なくしては決して成し得ない。毎日祈り、毎日力を得る。これなくしてはこの任務を果たすことは決してできない。

Ⅲ 【実を結ぶために】
①主に明け渡すなら。
* 私たちが受けた任務は工作ではない。いのちの循環による結実である。熟練が必要なのではない。いのちを運ぶ管(チャンネル)となればよい。このために、私の心のすべてを明け渡すこと。主に私のいのちのすべてを明け渡すことである。
②キリストを生きるなら。
* 明け渡された心に、主はすぐに来てくださる。主は実質は主であるが、主人として来られるのではなく、友として来られる。心の中で承認を取り承諾を得たところでご自分を発揮される。ですからキリストを生きるとは、すべて主に委ねることを言う。
③今はその時。
* 私がキリストを生きるなら、私を通して2000年前の奇跡が出現する。友のためにいのちを捨てるという、自己犠牲の愛は今では伝説である。その物語の中の現象が今の世界に出現するなら、キリストが現実に生きた方であることを理解する。

<結論>*キリストのいのちの管としての私たちは、何と言うしがらみに取り付かれていることであろう。しかし信じて主に明け渡すなら、それすらも邪魔にならない。キリストのいのちは、偉大な生命力で私たちを取り込むからである。(A.S.S.)

 

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