2004年度礼拝説教要旨

  01月04日『恐るべき勝利』 (詩篇76篇)2004,01 4(年頭奨励礼拝メッセージ)
  01月11日『主のために燃えよう』 (黙示録3:14~22)2004、01、11(教会総会準備講壇№ 1)
  01月18日『主のために刷新しよう』(黙示録3:14~22)2004,01,18(教会総会準備講壇№ 2)
  01月25日『主を心にお迎えして』 (黙示録3:14~22)2004,01,25(教会総会礼拝メッセージ)
  02月01日『いのち・この高価なもの』(マタイ16:26) 2004,02,01(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  02月08日『高慢にならないため』 (Ⅰコリント4:6~8)2004,02,08(コリント人への手紙講解・№15)
  02月15日『脱 出 の 道』 (詩篇107篇)2004,02,15(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  02月22日『私にならう者に』  (Ⅰコリント4:9~16) 2004,02,22(コリント人への手紙・講解№16)
  02月29日『懲らしめののちに』(イザヤ書26:15~21)2004,02,29(第五聖日奨励礼拝メッセージ)
  03月07日『イエスの十字架の意味』 (使徒の働き2:22,23)2004、03、07(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  03月14日『聖 餐 へ の 招 き』   (マルコ14:17~25)  2,004,03,14(年会送別礼拝メッセージ)
  03月21日(日)は、青山学院講堂での「合同礼拝」であったため、記載はありません。
  03月28日『信 仰 の 戦 い』 (ユダの手紙:1~4)  2004,03,28(年会報告礼拝メッセージ)
  04月04日『主の御名によって来られる方』 (マタイ21:1~11) 2004、04、04(棕櫚の聖日礼拝メッセージ)
  04月11日『十字架、埋葬、復活』 (マタイ27:57~66)2004,04,11(イースター礼拝メッセージ)
  04月18日『日曜日の明け方のこと』 (マタイ28:1~10)2004,04,18イースター礼拝メッセージⅡ)
  04月25日『エリヤとカラス』 (Ⅰ列王記17:1~8) 2004,04,25(春の野外礼拝メッセージ)
  05月02日『いっさいの権威を持つ主』  (マタイの福音書28:16~20) 2004,05,02(イースター礼拝メッセージⅢ)
  05月09日『聖霊の約束』 (使徒の働き1:1~8)  2004,05,09(聖霊待望礼拝メッセージⅠ)
  05月16日『屋上の間において』 (使徒の働き1:9~14)  2004,05,16(聖霊待望礼拝メッセージⅡ)
  05月23日『もう一つの準備』 (使徒の働き1:15~26)  2004,05,23(聖霊待望礼拝メッセージⅢ)
  05月30日『五旬節の日になって』 (使徒の働き2:1~4)  2004,05,30(ペンテコステ礼拝メッセージ)
  06月06日『キリストに繋がれて』 (ヨハネの福音書15:1~9)  2004,06,06(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  06月13日『思い上がっている人たちへ』(Ⅰコリント人への手紙4:14~21)  2004,06,13(コリント人への手紙・講解№17)
  06月20日『奇跡はなかったが』(ヨハネの福音書10:40~42)  2004,06,20(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  06月27日『ふりあげたむち』(Ⅰコリント5:1~5)  2004,06,27(コリント人への手紙講解・№18)
  07月 4日『人知を超えた愛』(エペソ3:14~19) 2004,07,04(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  07月11日『パン種の入らない祭り』(Ⅰコリント5:6~8) 2004,07,14(コリント人への手紙講解・№19)
  07月18日『モーセの手にある杖』(出4:18~21) 2004,07,18(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  07月25日『教会内の問題』(Ⅰコリント5:9~13) 2004,07,25(コリント人への手紙講解・№20)
  08月01日『キリストによる罪の赦し』(ルカ23:33~38) 2004,08,01(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  08月08日『世界を裁く者なのに』(Ⅰコリント6:1~11) 2004,08,08(コリント人への手紙講解・№21)
  08月15日『力ある信仰の祈り』(ヤコブの手紙5:15~20) 2004,08,15(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  08月22日『許されること許されないこと』(コリント6:12~20) 2004,08,22(コリント人への手紙講解・№22)
  08月29日『大人のクリスチャンの人生観』(詩篇90篇) 2004,08,29(徳山教会特別礼拝説教)
  09月05日『どうしてお見捨てになったのですか』(マルコ15:33,34) 2004,09,05(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  09月12日『不品行を避けるために』(Ⅰコリント7:1~7) 2004,09,12(コリント人への手紙講解・№23)
  09月19日『再度、祭壇を築く』(創世記35:1~7) 2004,09,19(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  09月26日『結婚生活について』(Ⅰコリント7:8~16) 2004,09,26(コリント人への手紙講解・№24)
  10月03日『主の渇き』(ヨハネの福音書19:28~30) 2004,10,03(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  10月10日『何が一番大事か』(Ⅰコリント7:17~24) 2004,10,31(コリント人への手紙講解・№25)
  10月31日『深淵の中から』(ヨナ書2章) 2004,10,103(牧師の不始末報告)
  11月07日『世が改まったとき』(マタイ19章23~30) 2004,11,07(召天者記念礼拝メーッセージ)
  11月14日『祈ることをはじめた』(創世記4章1,25,26) 2004,11,14(子ども祝福日礼拝メーッセージ)
  11月21日『年に三度の祭り』(出エジプト23章14~19) 2004,11,21(収穫感謝礼拝メーッセージ)
  11月28日『平和を呼ぶ声』(イザヤ書2章1~5) 2004,11,28(クリスマス待望礼拝Ⅰ)
  12月05日『平和の君として来られる』(イザヤ書9章6,7) 2004,12,05(クリスマス待望礼拝Ⅱ)
  12月12日『平 和 の 使 者』(イザヤ書52章7~10) 2004,12,12(クリスマス待望礼拝Ⅲ)
  12月19日『栄光が神に、地には平和が』(ルカ2章10~14) 2004,12,19(クリスマス礼拝)
  12月26日『心からの一年の感謝』(Ⅰ歴代16章1~14節) 2004,12,19(年末感謝礼拝)

12月26日の礼拝説教要旨

『心からの一年の感謝』(Ⅰ歴代16章1~14節)2004、12、26(年末感謝礼拝)→
* 2004年はお互いにとってどんな年であったか。年末の感謝礼拝では、毎年のように反省と感謝をささげている。今年もこのことをしたいと思う。そのためには、振り返って記憶を思い起こしていただきたい。その記憶に従って感謝の時を持ちたい。
Ⅰ 神の箱の安置と感謝
①いけにえのささげもの。
神の箱は長い間キリアテ・エアリムという所に置かれていた。それをようやくダビデの都であるエルサレムに場所を用意し運び込むことになった。ダビデはこの日いけにえをささげ、感謝の祈りをささげた。この日は喜びの日となった。
②丸型のパンと菓子。
* これを記念するためには全イスラエルが召集されたが、ダビデは彼ら一人一人に「丸型のパンと菓子」を振舞った。これはダビデが考え出したことであったが、それにしても大変なことであった。ダビデはこのようにしてこの日の喜びを表した。
③アサフたちによる賛美。
* 次にレビ人の中からアサフをかしらに数人を選び、さまざまな楽器を持たせ神を賛美した。賛美はこの日までは即興的なものであったが、以後は礼拝順序として定着することになった。そしてユダヤ教会、キリスト教会にこれが受け継がれて来た。
Ⅱ 反省すべきこと
①失敗したとき。
* 一年を振り返ってみて、信仰生活において失敗したことがあったと思う。そのことをいくら悔いても次につながらない。失敗は即座に悔い改めることが重要である。悔い改めることに躊躇することはなかったか。これこそが重要な反省点である。
②祝福を受けたとき。
* 主からの祝福を受けたこともあったと思う。そのときはダビデのように、自分にできる心からの感謝をささげたであろうか。証しをする、献金をする、記念樹を植える等など。これは神様から受けた恵みであることを心に銘記するために、感謝をささげたか。
③御声を聞く備えをしたか。
* 最も重要なことは、日々に御声を聞く備えをしてきたかである。朝目覚めたら、聖書を開きデボーションのときを持つことは、何としても習慣としたい。このためにはある程度の努力をしなければならないかも知れない。重要なのは求める心である。
Ⅲ 感謝すべきこと
①信仰が守られたこと。
* サタンの誘惑、肉の思い、この世の潮流など、信仰を妨げるものが多い中で、今日まで信仰が守られてきたことは大きな感謝である。信仰においてはもう大丈夫という段階はない。だから、守られたことを感謝し、さらに心を引き締めることが大切である。
②祈りが聞かれたこと。
* 一言でも多く祈る心がけを持つこと。その上で、これはどうしても聞き届けてほしい時には、心を注いで祈る。こうした経験を持つことはすばらしいことである。今年、祈りを聞いていただいたことがあったなら、これを忘れないためにも感謝をしたい。
③新年への抱負が与えられたこと。
* もうすぐ新しい年を迎える。そのための抱負を与えられたことを感謝しよう。まだ与えられていないのなら、今求めて、新年は神様から与えられた抱負によって出発したい。今朝は新年のための抱負を与えてくださることを信じて、まず感謝をささげよう。
<結論>*「失望のために祈る気力すらなくなった女性」がいた。牧師から「祈ってください」と言われてもなかなか祈れない。やっとのことで「天のお父様」といった。その瞬間、十字架のあがないの恵みが注がれ、感謝が次々と出てきたという。(A.S.S.)

 

12月19日の礼拝説教要旨

『栄光が神に、地には平和が』ルカ2章10~14)  2004、12、19(クリスマス礼拝)→
* 昨今の世界の動き国内の動きを見るにつけ、今年のクリスマスは平和を考えることにした。平和は特に政治と深く関係している。そのため政治に触れないわけにいかない。それでも、聖書は平和を語っている。平和はクリスマスのテーマである。
Ⅰ 御使いの賛美
①喜びの告知(:10)。
* ベツレヘムの羊飼いたちに、御使いが現れ告知した。それは「民全体のための喜びの知らせ」であった。ある特定の人にだけではない。これは「全世界」と解釈できる。「喜びの知らせ」がこの日もたらされた。「喜び」はすべての人のものとなった。
②救い主の誕生(:11,12)。
* その内容は、歴史に刻印を押す出来事であった。「救い主がお生まれになった。」涙と悲哀が満ちたこの世に救い主が来られた。当然この日から後は、世界は変わる。この方は「心の救い」のために来られた方。求めるなら直ちに与えられる救いである。
③天の軍勢の賛美(:13,14、Ⅱ歴代20:21)。
* 「軍勢」は戦いの集団をいう。人の魂の救いは、これから展開される戦いである。サタンの惑わしと人の頑なとの戦いである。彼らの武器は「賛美」ちょうど、ヨシャパテが「賛美」で敵と戦ったように。人を救い賛美を与え、その行軍で戦いを展開される。
Ⅱ 平和への願い
①最も新しい「平和宣言」。
* 先週16日に鹿児島県議会で出された。「無差別大量破壊兵器廃絶・世界の恒久平和を希求する鹿児島県宣言」。ある論評に「日本の若い世代が戦争を知らないと言うことが、日本国憲法が平和憲法である証拠である」とあった。これは説得力がある。
②戦争を好む人はいない。
* 日本では江戸300年、戦後半世紀強は戦争が無かった。もし、戦争を好む人がいたら、その人は「心が壊れた人」である。正気なら平和がいい。人々が心底から望んでいるのは、心の平和である。心が壊れていれば、いつか戦争がやってくる。
③クリスマス休戦。
* 1914年12月23日頃、西部戦線で戦火がほぼ全戦線で停止した。そして敵味方の将校・兵士による交歓会が無人地帯であった。最も盛んだったのはイープル周辺の地区だった。以後ベトナム戦争の時にも同じ呼びかけがあったが実現しなかった。
Ⅲ クリスマスに秘められた平和(:14)。
①「いと高き所に」。
* 「いと高き所に」神がおられる。人類の歴史は殆んどこれを無視した形で進んでいる。教会の宣教は、歴史の流れとしては細々としたものである。それでも、平和の希望はここに託されている。すべての人が神を認めるようになるまで、この戦いは続く。
②「地の上に」。
* 信じる者が起こったとき、神は栄光を受けられる。宣教が進めば、信じた者の心に平和が訪れる。いつの時代もそうであるが、青年への伝道が、次の時代へとつなぐ鍵である。その意味で、若い兄弟が洗礼を受けるこの年は、祝福された年と言える。
③「御心にかなう人々」。
* これは神とパイプができた人のこと。福音が宣べ伝えられ、まずその人の心に平和が実現する。これが拡大していけば、地の上に平和が訪れる。クリスマスはこの真理を銘記する最もよい機会である。家族にも伝道の重荷が与えられるように。
<結論>*①人は平和を希求している。②歴史の自然の流れでは平和は来ない。③人の心の平和は福音宣教に託されている。④神が介入されるとき恒久的な平和が実現する。私たちには途轍もない使命が与えられていることを自覚したい。(A.S.S.)

 

12月12日の礼拝説教要旨

『平 和 の 使 者』イザヤ書52章7~10)  2004、12、12(クリスマス待望礼拝Ⅲ)→
* メシヤが来られたなら、世界の平和は実現する。これがイザヤの預言であり確信であった。現状を見る限り、平和は来るのだろうか、といぶかる面がある。しかし、神を信じ預言者を信じるなら、平和は必ず実現する。これをイザヤとともに夢見たいと思う。
Ⅰ 平和の告知(:7)。
①良い知らせ(キリストの物語)(ロマ10:15)。
* 待ち望んでいたメシヤが、遂に一人の男の子として生まれ、十字架によって人々の救いを完成し、その救いは全世界に告げ知らされる。この物語、これが「良い知らせ」(ゴスペル)である。主は復活された後、弟子たちに全世界への告知を命じられた。
②平和を告げ知らせる者の足(福音宣教)。
* 12弟子たちは熱心に伝道し、殉教で福音を証しした。「キリストの物語」福音を受け入れることは心に平和をもたらす。これによって世界中の人々が福音を受け入れるなら、世界の平和は実現する。ですから、これを伝える者は「平和の使者」と言われる。
③神が王となる(神のご計画)。
* 平和とはばらばらになった人の心が一つとなることをいう。その中心が「神が王となる」である。エデンの園で、人の心は神から離れた。それ以来、心はばらばらとなった。これをキリストによってもう一度一つにする。これが神のご計画であった。
Ⅱ 平和の証し(:8,9)。
①見張り人たちの喜び。
* 見張り人とは救いを受け入れ、それを経験しそのすばらしさを知った人のことを言う。旧約時代にもそういう人々がいた。イザヤはその一人であった。キリストを知った私たちは、真の意味でそれを知り、心に喜びをもっている。それを現すことが証である。
②隠れている教会時代(エペ3:5、1:26、Ⅰペテ1:10)。
* この節には「奥義」と言われるものが隠されている。「良い知らせ」の平和を、実際に受け入れ、それを味わうのは新約時代の私たちである。預言者イザヤにはこれは見えていない。これを本当に理解したのはパウロであり、クリスチャンたちである。
③エルサレムの贖い(ロマ11:25,26)。
* 教会がこの福音を全世界に持っていく。その後に、「エルサレムの贖い」(ユダヤ人の救い)が来る。イザヤにはこれがはっきりと見えていた。これが世の終わりのしるしである(マタ24:32,33)。このしるしが見えるまで、私たちは真剣に伝道したいと思う。
Ⅲ 平和の完成(:10)。
①全世界への告知。
* イスラエルの神が、天地を創造された唯一の神であること。イエス・キリストが唯一のまことの救い主であること。イスラエルがその証人であったこと。(教会が救い主を受けれた人々の群れであること)。こうしたとをすべての人が認めざるを得なくなる。
②主の顕現の時。
* 終わりの日には、キリストがもう一度この地上に現れる。このとき、すべての人の心の中が明らかとなる。キリストは王として君臨されさばきを行い、その主権にすべての地上の王たちも従わざるを得ない。黙示録には「千年期」として啓示されている。
③神の救いを見る。
* バベルの塔以来の人類の歴史は、「地上天国建設」の歴史であった。平和、幸福、平等、一致、繁栄などなどが目標として掲げられてきた。反面、個人個人は心の問題を抱え悩んできた。その救いがキリストにあることをすべての人が認めるようになる。
<結論>*旧約の預言者たちが夢見た「平和」は、時代のしるしから見て、もうそこまで来ている。人間が支配する時代が終われば、キリストが王として来られる。私たちはこれを信じ、与えられた力の限り、平和の使者として務めたいと願う。(A.S.S.)

 

12月05日の礼拝説教要旨

『平和の君として来られる』(イザヤ書9章6,7)  2004、12、5(クリスマス待望礼拝Ⅱ)→
* 世界中のクリスチャンが「平和」のために祈りの声を上げている。それは聖書に「平和の君」の来臨が約束されているからである。地に闇がおおいだすと、人々は神に目を向ける。これはいつも行われてきたが、終わりの時には顕著にそれが見られる。
Ⅰ 「平和の君」が来られる。
①「みどりご」の誕生。
* 闇に光が照る。それが「みどりご」の誕生である。イザヤが見た幻では、メシヤは人間の子どもの誕生として来られる。マタイとルカの記事によれば、救い主はそのようにして来られた。イエスの誕生はイザヤによって、このように預言されていた。
②「助言者」としての奉仕。
* 「不思議」といわれる方の顕現は、旧約では何度か紹介されている(出15:11士13:18詩篇77:14)。「みどりご」は、地で「不思議な助言者」(カウンセラー)として奉仕をするために来られる。これは主の地上生涯の奉仕の描写である。 
③「平和の君」と呼ばれる。
* この方は決して争わず、愛と平和のメッセージを語られた。民の指導者たちがねたみと憎悪を持ってきたときも、逆らわずに甘受され、十字架の上でその死を遂げられた。その血が、人々の心を癒し、神の愛を受け入れる従順をお与えになった。
Ⅱ 「ダビデの王座」に着かれる。
①「永遠の平和」の支配。
* ユダヤ人は「ダビデの王座」を過去のことではなく、未来のことと見ていた。主のみ業はまだ終わっていない。主は終わりの世にもう一度来られる。このときユダヤ人が夢見ていた「ダビデの王座」に着かれる。ここで「永遠の平和」の支配を始められる。
②「さばきと正義」の支配。
* 平和は「さばきと正義」によって堅く立てられる。これによって不正と不公平が排除され、慈悲が行われるので、人々の信頼を勝ち取り、統治は堅く立てられるであろう。このとき人々は御心が地で行われる恩恵を目の当たりに知ることであろう。
③いつそれは実現するか。
* そうした時代は何時来るのだろうか。これからの時代はますます混沌を極めるであろう。マタイ24章の前兆がみな現われた後に、福音が全世界に伝えられ、人々が神に期待するときが来る。これから「ゴスペル」の時代が波のように来ようとしている。
Ⅲ 「万軍の主の熱心」が成し遂げる。
①絶望的な状況。
* 人々はまだ科学技術の進歩、経済の進展、国際政治の可能性に目を向けている。しかし、それもやがて限界であることに気づくときが来る。環境問題、大量破壊兵器拡散、防疫の破綻、民族紛争、南北格差が世界を圧倒し始め、絶望感が世界中を覆う。
②高まる「神への期待」。
* 「苦しい時の神頼み」「溺れる者は藁を掴む」。この諺が個人のレベルを超えて、総人類的なうねりとなる時代が来る。恐らくそれは、もうすぐそこまで来ている。今まで無視され続けてきた福音が、語られ論じられ、多くの人々が神と向き合うときが来る。
③そのとき「立ち上がられる」
* それは信仰と不信仰が、はききりと分けられるときである。もう無関心は許されない。主の熱心が、ここまで人々の心を駆り立ててきた。これからも主の心はもっと燃える。人々が「主よお救いください」という声を上げるまで、主は熱心に働かれる。
<結論>*今朝のメッセージに目をとめていただきたい。絶望は絶望に終わらない。暗闇の向こうに「永遠の平和」が用意されている。神はこのように計画しておられる。このことを信じて、クリスチャンはどこまでも神に期待すべきである。(A.S.S.)

 

11月28日の礼拝説教要旨

『平 和 を 呼 ぶ 声』イザヤ書2章1~5)  2004、11、28(クリスマス待望礼拝Ⅰ)→
* 今朝から「待降節」にはいる。今年のクリスマス・テーマは、「平和」である。憎悪と復讐の悪循環がなかなか断ち切れない今日の世界の現状を、どう解決するのか。イザヤのビジョンを通して考えたい。彼は、メシヤによる世界平和を夢見たのである。
Ⅰ クリスマスのメッセージ
①天には栄光、地には平和(ルカ2:14)。
* ルカ2:14は、「平和原理」といわれている。地上の平和は、この道筋以外からは来ない。これはクリスマスの中心的メッセージである。今年、クリスマスが近づきつつあるとき、人々に切に語りたいのは、キリストは「平和の君」であることである。
②心にある争いの種(ヤコブ4:1,2)。
* 地上は今も争っている。人間は進歩したのか。なぜ争いはなくならないのか。「争いの種」は、人の心の中にあると、ヤコブが指摘するように、人間は自己中心を改めようとしないため、数千年の歴史の教訓から学ぼうとせず、今も争っている。
③キリストを受け入れる。
* 世界は簡単にはキリストを受け入れようとしない。ですから、キリストを信じる者たちだけでも、全面的に「平和の君」を心に迎え入れ、キリストを受け入れることによって実現する「心の平和」を、人々の前に、目に見える形で示したいものである。
Ⅱ 終わりの日の幻
①世界はキリストを無視できない。
* そのためにはイザヤとともに、終わりの日の幻を見ることにしよう。イエス・キリストの存在は、今後ますます現実味を帯びてくる。私たちは今、人々の無関心の壁に直面しているが、これからの世界は、キリストを無視しては通れなくなってくる。
②21世紀は宗教の時代。
* 今でも、日本から一歩国外に出ると、世界中があまりにも宗教的であることに驚く人は多い。そして、21世紀は確実に「宗教の時代」となり、日本人といえどもその圏外にいることは難しくなる。人々は今後、ますますキリストの福音に熱い視線を向けて来る。
③福音を語り続ける。
* クリスチャンの信仰が燃える。これも終わりの日の特徴のひとつである。世界的なうねりがこれからやってくる。一時的に冷淡になることはあっても、クリスチャンが福音を熱っぽく語り続けるなら、見える形の神のみ業を、私たちは期待することができる。
Ⅲ 平和の到来。
①キリストが来られた時。
* キリストが天から帰ってこられるそのとき、神のご計画と人間の思いが平行線を辿っていたことが明らかとなる。歴史の挫折はここにあったことが判明する。当然、さばきが行われ、キリストの支配が確立される。もはや人々は自分の思いを遂げようとしない。
②すべての武器は廃棄される。
* キリストの支配のもとでは、自己防衛の必要はなくなる。今起こっている地上の戦いはみな収束する。鉄の武器も、心のとげもすべて廃棄される。人々は自分たちがいかに愚かなことをしてきたかを理解する。こうした時代はいつ来るのか。
③今日の励ましのことば。
* イザヤは言う。「来たれ。ヤコブの家よ」と。原理的には、神の全能はどんなことでも成し遂げる。しかし、キリストの到来と世界の平和は、信仰者たちが目覚めてこそ実現する。「主の光」が輝くのは、信仰者の生き方を通してであること忘れてはならない。
<結論>*自己主張と憎しみの歴史を、これ以上放置してはならない。信仰者たちが目覚めなければ、暗いニュースが終わる時代はやってこない。キリストを王としてお迎えしてこそ、イザヤのビジョンは実現するのである。(A.S.S.)

 

11月21日の礼拝説教要旨

『年に三度の祭り』(出エジプト23章14~19)  2004、11、21(収穫感謝礼拝メーッセージ)→
収穫感謝礼拝は毎年、「勤労感謝の日」の前後に定めて守ってきた。主の祈りでも「日ごとの糧」を祈ることを教えられていることから、毎日の生活が守られていることを感謝することも、意義のあること思う。今年はイスラエルの「三大祭」を取り上げた。
Ⅰ イスラエルの三大祭
①「種を入れないパンの祭り」(:14)
* 今で言えば正月の七日間、過越しのいけにえをささげて行われた。この日のパンは種を入れないで焼かれ、急ぎの装束をして立って食べ、急いでエジプトを出たことを記念した。こうして神に従うときには、一刻を争うべきことを教えられた。
②「刈り入れの祭り」(:16)
* 後には上記の祭りから七週目(50日目)に行われたため「七週の祭り」と言われるようになった。この日シナイ山麓での「律法授与」が記念され、新約時代の初めを告げる「ペンテコステ」となったため、クリスチャンには特に重要な記念日となった。
③「収穫祭」
* 後には「仮庵の祭り」と呼ばれるようになった。その年の収穫が終わった秋の感謝祭で、民は散った各地から収穫を携えて都にやってきて、収穫を祝った。詩篇の「都のぼりの詩」はこのときに歌われた。ヨハネ7:37の呼びかけはこの時のことである。
Ⅱ 感謝のとき(:17~19)。
①「種を入れたパン」を除くこと。
* 次に、祭りの際の三つの注意点を挙げている。「パン種」は不純物を意味する。これが入ったパンを取り除くことは、宗教生活から一切の不純な思い、動機を除くことを教える。祭りは信仰生活の基本を、心に刻み込むためでもあった。
②脂肪を完全に焼き尽くすこと。
* 小羊の脂肪が焼かれることは、キリストの十字架による贖いが、完全に行われなければならないことを意味した。主が十字架上で「完了した」と言われたとおりである。それを象徴して、祭りのときの脂肪は完全に焼き尽くされた。
③初穂をささげること。
* 三番目に、収穫の初穂を携えてくることが命じられた。ユダヤ教の時代に入ってからは、祭司たちがイザヤ12:3を唱えながら、祭壇に水を注ぐ儀式が行われるようになった。これはエジプトから、捕囚の地からの「救いの恵み」への感謝を意味した。
Ⅲ 神への全き信頼のとき
①子やぎの肉の風習(:19)。
* これはウガリット文書の考古学的発見で確認されたことで、カナンでは広く行われた風習であった。小やぎの肉を母やぎの乳で煮、これを地に注いで次の年の豊作を期待した。神はイスラエルがこうした異教的行為を行うことを一切禁じられた。
②魔術的な儀式の禁止。
* 神はイスラエルが祭りを行い、儀式を行うとき、何処までも象徴とし、記念とすることに配慮された。ところが民は、儀式そのものに力があるとする、カナンの周辺の魔術的行為に魅力を感じ、引き寄せされる傾向があったが、これを厳しく戒められた。
③神だけに信頼する。
* 周辺民族には呪い、占い、卜占、口寄せなど魔術が横行していた。また神の力を操ることができるとする、魔術師たちがいた。儀式は神の恵みと救いを思い起こすものであって、それ自身に魔術的なものは何もないことを、心すべきであった。
<結論>*私たちは儀式は霊的な意味を思い起こすと言うことで、大切にしてきた。教会でもしばしば行事を行ってきたが、それを通して神への信仰を告白することが、いつも重要となる。今年の残り少ない礼拝を厳粛に守って行きたい。(A.S.S.)

 

11月14日の礼拝説教要旨

『祈ることをはじめた』創世記4章1,25,26)  2004、11、14(子ども祝福日礼拝メーッセージ)→
* 今年も子ども祝福日礼拝を守ることができて感謝である。今朝は最初の人エバが自分の子どもを見つめる目から学びたいと思う。人生の悲哀が、子どもを憐れみと救いを求めて神の御許へと連れて来ようとした。これが最初の親の率直な姿であった。
  Ⅰ カインが生まれたとき
「得た」回復への希望
* エデンを追放されたエバにとって、「園への復帰」は切願となった。そんな時カインが生まれた。エバは「主によって得た」と言った。この願いを果たすために、勝ち取ったのである。エバのカインへの期待はそこに注がれた。そしてそのように育った。
カインとアベル
* 両親には良い面と悪い面があったが、カインは彼らの悲願を受け継いだ。自分こそ両親の夢をかなえる者と思った。ところが神の評価は違った。供え物の時、アベルは受け入れられ、カインは退けられた。兄はこれを怒り、感情のままに弟を殺した。
心の闇
* エバはこのとき知った、「なんと言う闇」あまりにも大きな衝撃であった。人間の心にこんなものがあるとは。努力したが、自分たちではどうすることもできないことがわかってきた。アダムもエバも、ただただ神の憐れみにすがる以外にないと考えた。
Ⅱ セツが与えられたとき
「授かった」神への期待
* 失って知ったのは、「アベルの心が神に近かった」と言うことであった。そんな時、もうひとりの子が生まれた。この子は神から授かった(シェテ)。セツと名づけよう。人間の心の惨状を救ってくださるのは、神に期待することだ。そして切にこれを願った。
信仰の継承
* 今度はエデンの園の素晴らしさとともに、自分たちの不従順を話すようになった。そして、神に従うこと、祈ること、救いを期待することを教え、そのように育てた。セツは信仰深い人に育って行った。こうして両親の祈りと養育は実を結んだ。
祈りの心
* セツが子どもを生んだとき、子どもの幸運を願ってますます祈り深くなった。人は生まれながらに罪深い。しかし人には神を求める心がある。この思いを大事にし、神への祈りに心を傾けていけば、神により近くなり、神の憐れみと導きを得ることができる。
Ⅲ 宗教の起こり
罪深さの自覚
* 宗教心の根底には、人の弱さ、罪深さ、惨めさへの認識がある。反対に自分を過大評価し、自分の力への自信があるとき、魂は眠りにつく。大きな困難に直面したとき、人が信仰深くなるのはそれである。人には神の助けなくしては救いがない。
神の救いへの期待
* 自分の無力を自覚するからこそ、神の救いへの期待が高まる。アダムとエバは神の厳しさとともに、その憐れみ深さを語ることを忘れなかった。このことから古代の人々は本能的に、「神は罪深い人間をお見捨てにはならない」との信念があった。
祈り始める
* セツの時代には宗教的な高まりがうねりとして押し寄せた。神はセツの家系を祝福された。時には時代の風潮に流されることもあったが、何代かするとエノクによって、さらに時代が下ってノアのときに信仰が息吹いた。こうして家系が信仰を守った。
<結論>*子どもへの本当の愛情は、この世の勝者にすることではなく、神の憐れみの祝福の中で育てることではないだろうか。子どもの自主性を尊重しながら、信心深く育てることは可能である。祈りの心をこの子に残したいと思う。(A.S.S.)

 

11月07日の礼拝説教要旨

『世が改まったとき』(マタイ19章23~30)2004、11、 7(召天者記念礼拝メーッセージ)→
* 召天者記念礼拝であるので、天の光景に心を寄せながら、礼拝のときを持ちたい。「世が改まる」その時は、すべての聖徒がよみがえる。それがどんなに輝かしい朝か。主の御言葉を通して、地上での自らの信仰を省みながら、検証することにしよう。
Ⅰ 心を縛るもの
①去っていった青年(:16~)。
* 一つ前には、せっかく主の御許に来ていながら、去って行った青年の話がある。その理由に「多くの財産」とある。これが彼を天国の入り口で戸惑わせたのである。またこれが今日でも、多くの人をキリスト教に失望させている理由でもある。
②富の危険
* 「らくだが針の穴」を通ることは不可能である。金持ちが天国に入ることはそれほどに難しい。富は心をこの世に向けさせる。金の力を信じれば、神を必要としなくなる。永遠のいのちは見えないものである。富はここから目をそらさせる危険がある。
③神の力への信頼。
* それでも、ザアカイ、ニコデモ、アリマタヤのヨセフはみな金持ちであったが、主を信じて救われた。これは神の力が働くと、不可能を可能とするからである。神の霊が彼らの魂を揺さぶり、欠乏を自覚させ、神を求める心を起こさせたのである。
Ⅱ 彼方を望む者
①「何もかも捨てて」
* この世のものに心が縛られる人がいる一方で、「何もかも」捨てて、イエスについてきた弟子たちがいた。彼らは家、家族、畑を捨てて、新しい人生にその身を投じてきた。これを奇異に感じる人もいるが、人間の魂の欲求に最も即した生き方である。
②「主に従った」。
* 彼らが主と出会ったとき、「この方こそ」と思った。この方に従って行くためなら、「何もかも」捨ててもよいと思った。この世では得られない、新しい価値を見たからである。それは決して「見える」ものではない。むしろ主の人格の中にそれを見出した。
③「何がいただけるか」。
* ペテロははっきりと言った。「何がいただけるのですか」。ペテロはこの世の望みを捨てて、新しい種類の望みを期待していた。この方についていけば、この世では得られなかったもの、それを新しい世では得られるとかたく信じていた。
Ⅲ 世が改まったとき
①栄光。
* 主は未来のことを言われ、それは人の経験を越えたことであるので、誰もその詳細を理解することはできない。それはキリストの勝利であり、栄光である。それに主に従ってきて、主の戦いに参加した者はその勝利にあずかる。これに勝る光栄はない。
報い
* 第二は捨てたものに倍して報いが与えられる。人は二人の主人に仕えることができない。この世にある間は絶えず選択の連続である。主に従う者たちが、そのために捨てた度合いに応じて、それの幾倍を「永遠のいのち」として報われる。
逆転
* 神の裁きの特徴は逆転である。先と思っている者があとになり、あとの者が先になる。地上にあってはただただ主を愛し、「世が改まる」その時を期待しながら進もう。この世の勝利者をうらやむ必要はない。逆転のときを信じて主に従っていこう。
<結論>*ヘブル12:1には、天の聖徒たちが地上の私たちの走路を見守っている、と記されている。これがどういうことを意味するかは、今はわからないが、かの日、天の聖徒たちとともに、「新しい世」を喜ぶことであろう。(A.S.S.)

 

10月31日の礼拝説教要旨

『深淵の中から』ヨナ書2章)  2004、10、31(牧師の不始末報告)→
* 牧師の不始末のため二回の聖日をお休みしたことを申し訳なく思う。この間、神学生が担当してくださったこと、愛兄姉が真実をもって、聖日を守り通してくださったことを、心より感謝する。この間の神とともに過ごした日々を証しし、報告としたい。
Ⅰ ことの経過。
①10月12日。
* この日、牧師一行は日和田山(350m)を目指した。登りはよかったが、くだり難所もすぎ、平坦となったところで、バランスを崩し、足を負傷した。家にたどり着いて、救急で病院に着いたのは暗くなってからであったが、ここで骨折であることがわかった。
②10月15日。
* 螺旋骨折、きわめて珍しいケースで、手術の医師は大変興味を示した。約2時間、5本の金具を打ち込む手術であったが、無事終えてベッドに運ばれた。その夜は痛みとの戦いで、主を恨むこともなく、感謝しながらしきりに祈った幸いな夜であった。
③10月23日。
* 手術後は点滴とリハビリで時を過ごしたが、23日退院が告げられた。家について松葉杖でどうにか二階に上がったが、しばらくは二階だけで過ごすことになった。私にとって、仕事がどっと来た丁度そのときであったので、なぜと言う焦る心もあった。
Ⅱ ヨナの経験
①個人経験を語る預言者。
* その間、ヨナ2章の祈りが心に浮かんでいた。ヨナは、神から逃亡し引き戻され、ニネベへの奉仕という、愛国心に満ちた預言者には耐えられない奉仕に当たった次第を個人的な証しの形態で書いている。預言者の中でも極めて珍しいケースである。
②自分探しの預言者。
* 主に忠実であるべき預言者が、なぜ「御顔を避ける」行動に出たのであろう。ヨナはまず自分に納得がほしかった。これが得られるまでは異邦人への奉仕には出られなかった。このため魚の腹という「深淵」にまで下ったが、まさに「自分探し」であった。
③立ち返った預言者。
* ヨナは、「深淵」に来たときの信仰者のするべきことを知っていた。そこに来てまで神を避けるべきでないこと。主に叫ぶべきときであることを知っていた。「もう一度」「仰ぎ見たいのです」。自分の居場所は神の御許、それで、へりくだり誓いを立てた。
Ⅲ 牧師の心の経過。
①クリスマスに向かうこの時。
* クリスマスに向かう今の時期は、牧師にとっては実に緊張を要するときである。今年に入ってから、チラシ配布から来た人はごくわずかで、ほとんど反応がない。救霊は教会にとっても牧師にとっても重要な任務である。これにまい進する時であった。
②教団創立60周年事業。
* 来年は教団創立60周年に当たり、その記念事業も始まった。不肖私にも、任務の一つが与えられた。いろいろと構想を練ってもいた。機材も着々と準備しつつあった。その矢先の怪我は受け入れるのに困難を極めた。主に祈ることしきりであった。
③御手にゆだねて。
* すべてを主に委ねたとき、29日医者は「あと二週間」を告げた。主は焦る心を取り除いてくださった。と同時に、辱めには合わせなさらないとの確信にも立つことができた。今回の事故は、どう見ても神のなさったことであった。そう理解することができた。
<結論>*牧者も神の御前には一信徒である。今回の取り扱いはまことに貴重な経験であった。神の御心は深い、そして一歩一歩その深さにと導いてくださる。そのための苦しみなら、信仰者は喜んでそれを受け入れるべきである。(A.S.S.)

 

10月10日の礼拝説教要旨

『何が一番大事か』 (Ⅰコリント7:17~24)2004、10、10(コリント人への手紙講解・№25)→
* ここに示されているパウロの提案は、信仰生活のすべてではない。ある意味で半面であるといえる。ですから、誤解しないように扱わなければならないが、大切なことであることには変わりない。ようはまず、心の確信にしっかりと立つことである。
Ⅰ 原則と適用
①律法主義の危険
* パウロは具体的な問題を扱ってきたが、これは規則となり、今度はクリスチャンの行動を縛る危険があった。すなわち、「規則の一人歩き」である。これが律法主義の危険であって、パウロは自分が与えた行動基準が問題になることを知っていた。
②具体的問題から原則へ。
* 具体的行動基準は、必ずその出所がある。根があってそこから葉が出て花が咲いているのであって、根から離れてはならない。パウロが結婚問題において与えた行動基準にも、原則がある。クリスチャンの考え方は、まず原則に立つのが基本である。
③原則に立つこと。
* 結婚の次には、自分たちが奴隷であることが問題となった。これをどう考えるか。神の御心はどこにあるのか。この原則に立って、行動の基準を考えていく。こうすることで、クリスチャンは自分で、いろいろな問題に対処して行くことができるようになる。
Ⅱ 摂理を受け入れること(:18~20)。
①「分に応じ」。
* 「分際」「分相応」ということばがあるが、この封建的なことばとよく似たことばである。インドのカーストもこれに似ている。しかし、パウロの言うことは宿命論ではない。神への信頼がその基本にある。神はバラエティーのある世界を造られたのである。
②「神の命令を守ること」。
* 「神の命令」とは、主を証しすること。心に響く、主のみ声に従うことを言う。「主は心を見る」とのみことばのごとく、心の宗教を目指すべきである。この点でクリスチャンはいつも、心に目を留めるか、うわべに目を留めるかが問われることになる。
③「召されたときの状態」。
* 召されたときの状態そのものが、悩みの種であったかもしれない。しかし、救いはそこからの救いではなく、心の救い、罪からの救いであった。ところが召されたときの状態が、再びクリスチャンを悩ますことがある。だからこれに心を悩ませてはならない。
Ⅲ 恵みを受け入れること(:21~24)。
①自由になれるなら。
* 自由がない。貧しい。厳しい人間関係にある。そうした中で耐えていくことは確かに厳しい。「気にしてはいけない」とは、そうした中で証しとなるからである。しかし、自由になれるなら自由になればよい。脱出の道も神は用意しておられるからである。
②主に属する自由人。
* 身は奴隷であっても、救われた者の心は自由である。この自由を味わっているなら、状況は問題ではない。「私はキリストのものとなった」「キリストの奴隷である」。この確信に立つなら、自由人である。贖いの恵みに立ち続けるなら、これを可能とする。
③人間の奴隷となってはならない。
* コリントの人々の問題は、状況に圧倒されていたからである。主の恵みに立てば、それを押し返すことができる。それが、「人間の奴隷となってはならない」ということである。救いの恵みは、環境を吹き飛ばす力がある。これを知ってほしいと思う。
<結論>*信仰は見えない世界に根を張って生きることである。しかし、見える世界、現実が圧倒してきて、信仰を弱らせることがある。こうした問題に直面したとき、心を自由にしていただいたという恵みを、堅持することである。(A.S.S.)

 

10月03日の礼拝説教要旨

『主の渇き』ヨハネの福音書19:28~30)  2004、10、03(第一聖日伝道礼拝メッセージ)→
キリストの十字架は永遠の不思議である。ここに人間が持つあらゆる問題(【人間の問題】)が集約されており、神による回答として示されている。もし、十字架を見ようとしないなら、人生は堂々巡りとなる。本当に救いを得たいと思うなら、十字架を見上げよう。
Ⅰ 「わたしは渇く」
①からだの渇き。
* ある注解者は、主は十字架で七つの傷を受けられたといっている。その傷から体内の血をすべて地に注がれた。流血に伴って激しい渇きが襲う。この渇きは切実であった。私たちは渇きを知っている。主は私たちが知るこの苦しみを味わわれた。
②心の渇き。
* 主の肉体上の渇き以上に、心の渇きは切実であった。主は人々から受けた辱めも罵倒も忍ばれた。しかし、人々の御心に対する無知には、圧倒された。父の御愛、それに対する人々の冷淡、この狭間の中で、主は激しい心の渇きを憶えられた。
③全世界のために(Ⅰヨハネ2:2)。
* 人間は自分の罪のために、神の怒りしか感じていない。御父はそうではなく、全世界を赦そうとしておられる。それを人の心に伝えるためには「ことば」が必要である。それが主の十字架であった。十字架には「主の熱い思い」がほとばしり出ている。
Ⅱ 今も続く主の渇き
①罪の世の現実。
* 主の渇きは今も癒されていない。マタイ24:14はほぼ成就されているといえる。にもかかわらず、御心に生きる人は何と少ないことか。ますます物質主義、世俗主義が人々を支配している。世界に満ちている犯罪と悲哀は、罪の世の現実を示している。
②悔い改めるなら。
* 救われるために、神は人間に難しいことを要求していない。「悔い改めるなら」「主の贖いを受け入れるなら」、ただそれだけである。3歳の幼子にもできることである。しかし、人間はこの悔い改めを回避しようとする、どうしようもない性癖を持っている。
③人々の無関心。
* 十字架上から、「どうしてわたしのこの救いを受けようとしないのか」という主のみ声が聞こえてくる。十字架はこんなに熱く燃えているのに、人々は冷淡である。まるで神はいないかのように毎日を生きている。人々の無関心が主の心を掻き裂いている。
Ⅲ 私たちへの訴え
①中途半端な救い。
* 救いの恵みは、心の平安とクリスチャンとしての品性にある。もし喜びを感じていないとしたら、残念である。十字架の代価は、救いの恵みが汲みだしても尽きないほどであるが、ほんの一部しか味わわれていないとすれば、もったいない限りである。
②聖霊を受けよ。
* 十字架は、聖霊が人の心に届くためにも道を開いた。今は求める者には豊かに与えられる時代である。この聖霊を受けるなら、救いは完全なものとなる。もう一度主の苦しみを思い、感謝をささげ、切実に聖霊を求めようではないか。
③福音のために。
* クリスチャンは救いの恵みを一杯に受けて、満たされることは主の願いである。信仰に徹底すれば、聖霊によって結実し、主の証し人として役立つことができる。神の熱い思いは、クリスチャンの証しを通してもっともっと伝えられなければならない。
<結論>*人々は十字架から目をそらしている。これが人の世の現実である。神が用意された薬があるのに、人々の傷口は施しようがないとされている。薬(十字架)を用いないで問題を解決しようとしている。十字架を見上げようではないか。(A.S.S.)

 

9月26日の礼拝説教要旨

『結婚生活について』Ⅰコリント7:8~16)2004、09、26(コリント人への手紙講解・№24)→
家庭は人間関係の最小単位であるとともに、教会と国家の基盤である。ここに、サタンの攻撃が来る。家庭は愛と服従によって守られるが、それを保証するものは純潔である。家庭を純潔に保つことなしには、教会は一歩も前進しないのである。
Ⅰ 具体的問題への提言
①主の言葉があればそれに従う(:10)。
* 聖書は、夫婦は神によって固い絆で結ばれていると教えている。この教えは非常に大切であって、ユダヤ人だけでなく、クリスチャンも守るよう、主が再度それを教えられた(マタ19:11,12)。ですから、日々にみことばを読み、それを実行すること。
②一般的には自分で見出すのが原則(:12)。
* しかし、生活の細部にいたるまで、聖書に指示があるわけではない。主に従おうという心と、御心の原則をわきまえれば、大体のところは正しく行えるようになっている。たとえ正しい道から外れていても、神により頼む人を、神は助けてくださる。
③先輩や友の忠告もある。
* 時には先輩や友の忠言を聞くことも大切である。この場合、他人の意見に振り回されて、自分を失うことがあってはならない。12節のパウロのことばは、最後には自分で判断することを示唆している。「神に従う」この意志があれば、まず間違いない。
Ⅱ 結婚についての提言
①情の燃えるよりは結婚したほうが良い(:8,9)。
* パウロは独身を良いこととしながらも、強くは勧めていない。それは独身の危険を十分に知っていたからである。性欲は抑えがたく、もし独身主義を通したために、サタンの誘惑に陥れば元も子もない。普通は、無理をしないで結婚したほうが良い。
②決して離婚してはならない(:10~13)。
* 主の命令として、離婚してはならない。すでに離婚しているのなら、再婚を考えないでそのままでいるか、和解しよりを戻すこと。この場合、二人が分かれた状態でいることであって、相手がすでに他の人と結ばれているのなら、その限りでない。
③結婚を伝道の場としなさい(:14)。
* 「聖められている」とは、神の恵みに近いところにいる、と解釈することができる。未信者の場合、信者と結婚していることは大きな恵みである。彼はより救いに近いところにいるのだから、信者は祈りと証しによって、彼を導くよう努力する必要がある。
Ⅲ 離婚についての提言
①相手の意志にまかせなさい(:15)。
* 未信者との結婚関係はトラブルとなることが多い。離婚を考えることもあるが、決して自分から別れてはならない。ただし、相手が離れたいのなら、それに任せても良い。相手にはもう求道の意志がないのだから、無益の苦しみに留まる必要はない。
②信者は縛られる必要はない。
* 御心に生きようとする信者を拒むのは、キリストを拒むのと同じである。このような場合、信者は縛られる必要はない。相手が神を求める意志がないことがはききりした場合、そこに平和が訪れることはない。実を結ばない苦しみは決して神の御心ではない。
③離婚の危険は避けなさい(:16)。
* 結婚において、まだ信仰のない相手を信仰に導けるという保証はない。だから相手が去るというのなら、去らしたほうが良い。また若い兄弟姉妹は、こうした危険性がある結婚を選ぶべきではない。心して、主にあって一致する相手を選ぶべきである。
<結論>具体的な指示は、細部にいたればまた意見が分かれるということがある。だから、人の意見に頼るよりも、自分で答えを見出す訓練をする必要がある。神に明け渡された服従の心があれば、神は必ずその人を導かれる。(A.S.S.)

 

9月19日の礼拝説教要旨

『再度、祭壇を築く』(創世記35:1~7) 2004、09、19(第三聖日聖別礼拝メッセージ)→
* ヤコブは若いとき神と出会い信仰に立った。しかし、彼の魂に刻まれた癖のある自我が、その後の人生を苦渋に満ちたものとした。彼の半生はまことに熾烈であった。しかし神は「わたしはあなたとともにいる」(28:15)との約束を、最後まで守り通された。
Ⅰ 朝比奈寛牧師を記念して
①大阪からの電話。
* 17日(金)大阪(箱根)から、朝比奈牧師召天を知らせる電話が来た。今年に入って体調を崩されたことを聞いていたので、心にはかかっていたが、様子がよくわからないままこの日を迎えてしまった。一人の神の人が、今神の御許に帰って行かれた。
②朝比奈先生の思い出。
* 高校1年のとき、大阪伝法の街角で、先生が「神は愛なり」の提灯を掲げて伝道しておられたちょうどそのとき、私が通りがかって教会へと導かれた。そのまま、入信、受洗、献身、神学院へと導かれてきたが、これらはみな先生の導きであった。
③伝道への情熱。
* 当時30歳代の先生は。使命に燃えて路傍伝道にまい進しておられた。私はどちらかというと、その情熱に怖気ていたが、今になってみれば、人生求道にしろ伝道にしろ、永遠のいのちの獲得にある。先生は早くから正解の道を走っておられたのである。
Ⅱ ヤコブの半生
①ベテルへの道(28章)。
* 今朝はヤコブの半生を振り返える。自分の失敗から、母の実家ハランへと旅立つことになった。途中で日がくれ石の枕でからだを横たえた。そのとき幻で天からの梯子を見た。彼はこれで神の御守りを確信し、信仰に生きることを決心して祭壇を築いた。
②ラバンのもとで(29~31章)。
* ヤコブはエサウを騙したが、ラバンはその上手であった。結婚で14年をただ働きで過ごしたが、常に叔父の強引さに振り回される始末であった。そうした中で神に祈ったとき、神は助けてくださった。しかし、彼に平穏の日々を与えることはなかった。
③生まれ故郷へ(32~34章)。
* エサウがいる生まれ故郷への旅は気が重かった。神と相撲をとったのはそんなときであった。スコテでは、娘ディナをめぐって子どもたちが騒動を起こし、土地の人々に不評を買ってしまった。神の祝福はどこにあるのかと、いうのが実感であった。
Ⅲ 祭壇を築く
①神の声(35:1)。
* 「ベテルへ行け」との神の声を聞いた。ベテルは魂の原点、信仰の誓いを立てた地である。苦渋に満ちた人生で、帰るベき魂の原点を持っている人は幸いである。神との関係の再調整。これが人生で私たちがしなければならない大切な仕事である。
②神への応答(:1~4)。
* この世を生きるしがらみがなんと多いことか。ヤコブはそれを整理することを家族全員に命じた。一つ一つがどんなに貴重に見えても、神との関係を調整するためには、もったいないというものは何もない。信仰を妨げているものを彼らはみな整理した。
③祭壇を築く(:5~7)。
* 神に従うことで起こる心配はみな解消した。ベテルはかって神が現れてくださったところである。今までの人生を振り返って、「神がともにいてくださった」ことが、すべてであったことを確認した。「これからもあなたともに参ります」との誓いを新たにした。
<結論>クリスチャンの祭壇は、みことばへの応答として行われる。こうしたことは再三に行ってきたかもしれない。それが人生に刻印を押すほどでなかったら、また流れて消えてしまう。心に刻まれるような祭壇を築きたいものである。(A.S.S.)

9月12日の礼拝説教要旨

『不品行を避けるために』(Ⅰコリント7:1~7)  2004、09、12(コリント人への手紙講解・№23)→
* コリント人への手紙が取り上げている題目は、非常に具体的である。しかし、その背後には、原理が前提となっている。ですから、その原理も引き出しながら学ぶということが必要となってくる。今回の前提は罪の猛威、人間の弱さの中の戦いである。
Ⅰ 禁欲主義への回答(:1)。
①コリントからの手紙。
* ここで初めて、パウロは、コリント人の質問を取り上げている。「男が女に触れない」は、コリントの教会に独身主義者がいたことをうかがわせる。それは「良いこと」である。特にパウロが独身で伝道に打ち込んでいる姿に、憧れを持っていたようである。
②快楽主義の危険。
* 5章でも触れたように、快楽主義者もいた。世の風潮はウイルスのように、霊的に弱い部分に攻撃をかけてくる。クリスチャンに、少しでも世的な部分があれば、そこが感染源となる。こうした危険に断固として対抗するように、パウロは励ましている。
③禁欲主義への反動(ヨハ3:16)。
* こうした危険から逃れるために、極端な禁欲主義者もいた。しかし、禁欲も無理をすれば、非常に危険であることは、もう実験済みである。人間の自然の姿から言って、理想だからといってできるものではない。現実はそう甘くないということである。
Ⅱ 夫婦生活の処方箋(:2~7)。
①不品行に立ち向かう。
* 不品行の濁流から守るためには、自制心だけでは不安な場合がある。コリントのこうした特殊な事情を考えると、若い人は早く結婚して、「不品行を避ける」。これがパウロが考えた処方箋である。こうしたところにパウロの現実主義者の顔がある。
②妻の権利、夫の権利。
* さらに、不品行を避けるために、お互いの権利の制約がある。現在でも不品行は、独身者よりも結婚者の方が多いのが実情である。夫婦が不和のために、外にはけ口を求めるというのが実態である。だから夫婦の場合、権利も一体でなければならない。
③合意の上で。
* 合意できるということは、よく話し合うということであって、夫婦の一体はここで築いていかなければならない。たとい「祈りに専念する」ということであっても、それは大切なことではあるが、一方的な宣言であってはならない、というのがパウロの見解である。
Ⅲ 夫婦の協力
①一体となって戦う。
* 夫婦は不品行の罪と一体となって戦うべきである。夫が罪を犯した場合、それは妻の罪でもある(その反対も)。これが一体の意味である。このように罪は、夫婦の隙をついてくる。サタンの攻撃の前に自制心が欠くとき、お互いの協力が必要である。
②弱点をかばい合う。
* 夫は妻の弱さをかばってあげる。夫の弱点には妻も協力する。理想も潔癖症も、それを主張して夫婦の亀裂となっては何もならない。パウロは自分のような独身を理想としたが、普通の人の場合、クリスチャンを生きるのも、夫婦の一致によると考えた。
③祈り合う。
* 独身生活は、祈りに専念できるということでは有利である。夫婦の場合も、祈りは大変大切である。お互いが向き合うことで神と向き合うことが疎かとなってはならない。合意の上で時には祈りに専念し、また一緒になる。これはどこまでも処方箋である。
<結論>「容認であって命令ではない」。上の処方箋を、罪を犯した者が言い訳に使わないようにというパウロの意図がある。たとい妻(夫)が協力してくれなくても、罪は罪である。不品行はどんなことがあっても避けなければならない。(A.S.S.)

 

9月 5日の礼拝説教要旨

『どうしてお見捨てになったのですか』(マルコ15:33,34)  2004、09、05(第一聖日伝道礼拝メッセージ)→
* 今年は伝道礼拝で、十字架をめぐるメッセージを語ってきた。十字架を理解する。これが信仰への最後のステップである。十字架がわかれば、罪がわかり、信仰が自然にわいてくるように出てくる。十字架の前に、真剣に出ていただきたいと思う。
Ⅰ 十字架上の愛の苦しみ。
①手術台の上で。
* 神学院1年の時、盲腸の手術を受けた。手術台の上で、絶え間なく恐怖が襲ってきて、その間、ずーっと主の十字架を思っていた。そうしているうちに意識が消えていった。あの時、十字架が非常に近くにあったことを、今でも鮮明に覚えている。
②主の十字架の苦しみ。
* 釘で打たれた(ヨハ20:25)ことだけで、それは想像に絶する苦しみであったことがわかる。主の苦しみはそれに追い討ちをかけるように、御父から捨てられるという、魂の苦しみがあった。「わが神、わが神」という叫びは、耐え難いものであったことを知る。
③御父の苦しみ(ヨハ3:16)。
* 「独り子をお与えになったほどに」とは、御父も、御子を十字架につけねばならない苦しみを忍ばれたことを示す。御父はここで、引き裂かれる御子への愛と、ご自分が創造された人間への愛との間に挟まれた形で、十字架上の御子を見ておられた。
Ⅱ 十字架上の罪の恐ろしさ。
①自分の罪を見たとき。
* 教会に通い始めて1年ほどしたとき、私は自分のうちにある罪をはっきりと見せられた経験をした。この罪のために、主は十字架にかかってくださったのだ。これがわかったとき、信仰は自然の形で、心の中からふつふつと沸いてきたことを覚えている。
②なだめの供え物(Ⅰヨハ2:2)。
* ヨハネは十字架を「なだめの供え物」という。これは神と人間との関係の修復のために、絶対に必要なものであった。なぜなら、これを要求したのは神の義であったから。まず罪の赦しのための神の側の条件を満たす。これがなだめの供え物であった。
③身代わりの死(Ⅰペテ3:18)。
* 罪の報酬である刑罰は、大目に見ることも避けることができない。本心か身代わりかによって満たされなければならない。これがキリストの十字架であった。私たちはキリストの十字架を見るとき、罪の恐ろしさを、目の当たりに見せられるのである。
Ⅲ 十字架上の赦しの恵み(エペ1:7)。
①罪を悔い改めたとき(Ⅰヨハ4:10
* 私は17歳のとき、牧師が悔い改めを導いてくださった。それは「私は罪びとです。主の十字架によってお赦しください。」という単純な祈りであった。それまでは、悔い改め程難しいものはないと思っていたが、十字架がわかってからは自然に出てきた。
②救いの喜び(エペ2:8)。
* その夜は何事もなく眠りについたが、翌朝から、静かにしかし泉のように、喜びが心のうちから湧き出てくるのを感じた。「救われたのだ。」という実感が、流れ出てきた。今でも時々、「私のような者が救われたのだ」という感慨が沸いてくることがある。
③今日もチャンスがある(Ⅱコリ6:2)。
* 「十字架による罪の赦し」これ以上のものは地上にない。御父と御子が愛を搾りだして、私たちを救うために準備してくださった。私たちの応答「悔い改めと信仰」である。今日も救いの招きがされている。ぜひ、信仰によって受け取っていただきたい。
<結論>「天で大きな喜びがある」主は語られた。それは「十字架の苦しみ」に比例するものである。私が救われることを、このように御父と御子は待っておられる。救いは十字架によって準備された。後は私たちの応答があるのみである。(A.S.S.)

8月29日の礼拝説教要旨

『大人のクリスチャンの人生観』(詩篇90篇)  2004、08、29(徳山教会特別礼拝説教)→
* 今朝、徳山教会に招かれたことを感謝する。クリスチャンとして、次のステップに進んでいただきたいと思い、このメッセージを用意した。人生は確かに厳しい、しかし神のご慈愛は無限であることを、信仰を持って受け止めてくだされば幸いである。
Ⅰ 永遠の神と過ぎ去る人生(:1~6)。
①永遠の神・「私たちの住まい」。
* 人間の頭は永遠を理解することができない。その意味で、神の永遠を理解することは不可能である。しかし、神を信じる者は永遠を経験することができる。それが「住まい」である。神はツバメにも「住みか」を下さったが、私たちには永遠の神がある。
②人生は「ちり」「移ろう草」。
* しかし、ほとんどの人は人生に自分の居場所を見つけ出そうとしている。それは求めれば求めるほど、時間の流れに消えていく「ちり」、虚空の空間に消えていく「移ろう草」に過ぎないことを見出す。人生は旅路であっても「住みか」ではない。
③人生を達観し、甘えを捨てること。
* クリスチャンが大人となるということは、人生がこうしたものであることを見抜くとである。自分の思うようにならないと「どうしてどうして」と叫ぶのは「甘え」である。どこまでも神を信じる。父は無理解でも無慈悲でもない。神にすべてをゆだねて大丈夫である。
Ⅱ 神の怒りのもとにある人生(:7~11)。
①神の怒り(5回)の現実。
* もうひとつ、知らなければならないのは「神の怒り」である。これを受け止めなければ、私たちのほうが神に怒りがをぶつけることになる。何度「神はどうして」ということばを聞いたことか。実のところ「いつになったら悟るのか」と神のほうが聞きたがっている。
②怒りのもとにある人間。
* 「不義」「秘めごと」「齢」がキーワードである。「義」(神との関係)、「秘」(魂の闇)、「齢」(肉体に及んだ堕罪の影響)。この「怒り」を抜きにして、人生を「ふさわしく」送れない。また、「労苦も災い」も無駄になってしまう。まず、この「怒り」を受けとめることである。
③怒りを回避するものは何か。
* モーセはまだ十字架を知らない。しかし、彼は神の怒りを経験し、それを回避しようとしておられる神の御思いをも知った(出32章)。キリストは「敵」である者のために、神の怒りを回避するために(ロマ5章)、ご自身をささげられたことをも知るべきである。
Ⅲ 「知恵の心」と神への祈り(:12~17)。
①「知恵の心」を祈る。
* 人生を感情や欲や自分の夢だけで生きてはいけない。「知恵」が必要である。日々に聖書を読み、祈り、反省し、「御翼の陰」である、十字架によって怒りがとどめられていることを知って、人生ののろいも不幸もすべて十字架への信仰で処理すること。
②神とともにあることを祈る。
* ここでは「神の臨在」「あわれみ」「神による喜びと楽しみ」「労苦に応じた報い」が祈られている。このように、人生は「神と私」である。ここから外れてはすべては「やみ」、「無意味」「不可解」である。神から迷い出ることがないように、日々に祈ること。
③神のわざを生きることを祈る。
* 最後に「神のわざ」を見て、私たちの「手のわざ」を確かなものとしてください、と祈っている。「みわざ」と「手のわざ」を結ぶものは「信仰」である。子どもの間は少々の甘えは許されるかもしれなが、大人になることが期待されていることも知るべきである。
<結論>「永遠の神」が地上でも私たちの「住まい」「御翼の陰」「砦」「堅固な城」である。ここにいる限り魂は裸でも良い、秘めごとを持つ必要はない。人生を悲哀と涙でぬらすことがないように、クリスチャンの大人となろうではないか。(A.S.S.)

8月22日の礼拝説教要旨

『許されること許されないこと』(Ⅰコリント6:12~20)  2004、08、22(コリント人への手紙講解・№23)→
* コリントの教会の人々はクリスチャンの自由を履き違え、放縦が行渡っていた。ありえないことがあるというのが事実である。であるなら、現代の私たちも、こうしたことに心許してはならないことを知るために、今朝のメッセージに心を留めたいと思う。
Ⅰ 自由を放縦と履き違えてはならない(:12~14)。
①まず自由を自覚する。
* 「許されている」。これが原則である。クリスチャンは何をしてはいけない、これをしてはいけないということから解放されている。「支配されない」とは自主性である。パウロが言う自由とは、有益なことなすべきをを自主的に選び取って行うことである。
②自由と放縦を識別する。
* 食べたいものを食べ、やりたいことをやることが自由と思っているなら、それは本心かを問わなければならない。パウロは「したくない悪」(ロマ7:14)といっている。したくないことに振り回される。これは本当の意味の自由ではない、放縦である。
③本当の自由の意味を知る。
* 自由とは「甦りのいのち」に生きることである。目高にとって川の流れに漂うことは自由ではない。流れに向かって遡上することこそ、この生き物にとっての自由である。衝動やファッションは流れであって、クリスチャンはこれと立ち向かう自由を持つ。
Ⅱ 自由には責任がある(:15~17)。
①自由には制約がある。
* 「許されている」は、「許されていない」とあわせて読むべきである。パイロットは飛行機を自由自在に扱うには操縦桿を手放してはならない。クリスチャンはクリスチャンであり続ける限り自由である。未信者と同じ位置にいてはもはや自由ではない。
②自由には責任がある。
* 自由は選択の自由でもあるが、その結果には責任がある。パウロは結婚にたとえている。不品行は結婚と同じ結果を刈るとすれば、これは重大である。結果が有害だとわかった場合、自主性を持って選ぶべきものを選ぶ責任を自覚する必要がある。
③自由はいのちである。
* 「交わり」とは、クリスチャンの生きる環境である。ぶどうの枝が木とつながっているなら、実を結ぶことができる。御霊としっかりとつながっていることが、自由の源である。なぜなら、自由はクリスチャンのいのちそのものであり、生きる環境を必要とする。
Ⅲ 自由を行使べきである(:18~20)。
①不品行を避ける。
* いのちのない石ころなら、川の流れに漂うだけである。神のいのちを持つ者は、どんなことがあっても不品行を避けなければならない。たといそれが世の常識で認められていても、いのちを窒息させる結果を刈るなら、絶対に避けなければならない。
②自分の体を神にささげる。
* 「聖霊の宮」とは、「神の体」の意味である。体は土の器かもしれない。しかしそこに「宝」である主が宿っておられる。ですから私たちは身も心も明け渡し、聖霊に住んでいただき、私の体を聖霊が自由に用いることができるようにしなければならない。
③神の栄光のために生きる。
* 私たちの体は、キリストの血潮という代価を払って買い取られた。それは聖霊が私たちの体を必要とされたからである。これからは神がしたいことを、私の体を通してする。祈りによって神と交わり一体となって神の栄光のために生きることである。
<結論>あるクリスチャン女性が、「律法」にコチコチになっていたとき、ガラテヤ5:1のみことばで、解放されたという。またローマ13:14で、「肉欲」から解放されたという証もある。自由は勝利のための自由である。自由を生きようではないか。(A.S.S.)

 

8月15日の礼拝説教要旨

『力ある信仰の祈り』(ヤコブの手紙5:15~20)  2004、08、15(第三聖日聖別礼拝メッセージ)→
* 祈りはたましいの呼吸といわれているが、これはいのちの証しである。酸欠は現代の病の大部分の原因であるように、霊の世界にも大きな影を落としている。私たちが霊的な酸欠にならないためにも、今朝は私たちの祈りのあり方を検証しようと思う。
Ⅰ エリヤの物語(:1~6)。
①アハブとの対決。
* エリヤは熱心の人であった(ヤコ5:17のギリシャ語はそうした意味がある)。イスラエルがバアル信仰によって汚染されることを許せなかった。それで単身、王宮に乗り込み、3年余の旱魃を通告した。その後身を隠したが、その間、一滴の雨も降らなかった。
②イスラエルの神対バアル神。
* 再び身をあらわしたとき、王は旱魃をエリヤの所為にした。預言者の挑戦によって、バアルの預言者が集められ、祈りの対決をした。「火を持って答える神を神としよう。」バアルの預言者たちは、朝から晩まで熱狂的に祈ったが、火はくだらなかった。
③火をもって答える神。
* エリヤの番が来た。祭壇は水浸しにされ、先祖の神に向かって静かに祈りがささげられた。祈りは単純であったが、天から火が下り、ささげ物は呑み尽くされた。民衆は「主こそ神だ」と叫んだ。エリヤは号令をかけた。「バアルの預言者を捕らえよ」と。
Ⅱ 力ある祈りの秘訣(:7~11)。
①奇跡に目をつけた人々。
* 聖書の奇跡に目をつける人々がいる。「奇跡を見れば信じよう」という人もいる。主はこうしたことを「悪い時代」、と仰せられた。神は奇跡の神であるが、神ご自身以上に奇跡を前におくことをお許しにならない。エリヤにとって大切なことは「神」であった。
②力ある神を信じた人々。
* エリヤは神の全能を固く信じていた。水浸しの祭壇を焼き尽くすことは、天地宇宙を動かしておられる方にとって、たやすいことと信じていた。預言者にとってこれは試す必要もないことであった。問題はエリヤの心が神とひとつかどうかであった。
③祈りは聞かれるのか。
* 主の兄弟ヤコブは、祈りが聞かれる実例としてエリヤの祈りを上げている。聞かれないのは疑いがあり迷いがあるからで、二心だからだとある(ヤコ1:6~8)。神は本気で信じる者の祈りをお聞きになる。この点で、エリヤの祈りは私たちの模範であった。
Ⅲ エリヤの信仰。
①イスラエルの現状に対する認識。
* エリヤは考えた。神もイスラエルの堕落を怒っておられるに違いない。神も彼らを目覚めさせたいと思っているに違いない。私がここで、いのち懸けで行動するなら、神も身を引くに引けないだろう。私の祈りは聞かれる。これが預言者の確信であった。
②自分は何をすべきか。
* バアルの預言者に挑戦する。火をもって答える神を神とする。これが無謀なら、その判断は神にゆだねよう。私は殺されるだけ。それでも私はこうする。でなければ、イスラエルの信仰はこの世代で絶えてしまうに違いない。こう考えエリヤは行動した。
③徹底した献身。
* 神はエリヤをお見捨てにならなかった。ここには徹底した献身が見られる。聖書はこうしたところを「破れ」(詩篇106:23)といっている。モーセがこの破れに立ったとき、神は考えを変えられた。ここには神学を超えた、神と私との信頼関係がある。
<結論>私が神を信じるかということ以上に、神が私を信頼してくださるかという問題がある。もし、私が本気なら、神も本気になってくださる。祈りが聞かれるかどうかは、この信頼関係にかかっている。本気で神と向き合いたいと思う。(A.S.S.)

 

8月8日の礼拝説教要旨

『世界を裁く者なのに』(Ⅰコリント6:1~11) 2004、08、08(コリント人への手紙講解・№22)→
* この世では不正が行われている。だから、裁判が必要になる。しかし、パウロは永遠の基準に生きるキリスト者には世の裁判は必要ないという。これは極論に聞こえるかもしれないが、この意味を究めることは重要である。ともに考えてみたいと思う。
Ⅰ 法によるさばき(:1~6)。
①ローマの裁判制度。
* 古代の帝国支配で法が重要な位置を占めていたことはエステル記に見られるが、ローマはこれをより強固なものにした。公正は彼らの第一の徳であった。ですから、コリントの人々が、問題をローマの法廷に持ち出したことは、ごく当然のことであった。
②教会の処理能力。
* パウロはクリスチャン同士の間で起こった問題を、世の法廷に訴えることに激しく抗議している。「さばく力」とは、教会組織のことかもしれないが、むしろ、みことばと愛があれば、教会は教会内の問題を処理できると、パウロは確信じていたようである。
③恥ずべき行為。
* 世の法廷で行われるのは裁判である。教会で行われるのは仲裁である。だから、世に訴えること自体恥ずべきことである。一人の行きすぎた信者が激情にかられたとしても、教会に知恵者がいれば、それをみことばと愛によって処理できるはずである。
Ⅱ キリスト者と訴訟(:7~11)。
①この世の基準。
* 人の権利・財産を侵害することは「不正」である。パウロはこの不正は甘んじてもよいという。それは世の基準での不正であって、クリスチャンにはこの正義を守る責任はない。むしろこれを守ろうとして訴訟を起こしたとすれば、それは敗北だという。
②永遠の基準。
* 永遠の基準は、心、救い、永遠のいのち、神の国を相続することなどで表現することができる。もしキリスト者が、この世の基準で動いていたら、たとえそれが正当であったとしても、権利の主張をしているうちに、大切なものを失うことになりかねない。
③キリスト者が守るべきもの。
* キリスト者は永遠の基準にしたがって、権利主張をすべきである。なぜなら、神の国こそ、キリスト者がどんなことがあっても奪われてはならない、権利であり、資産だからである。そのためなら、甘んじるべきものは、甘んじようではないか。
Ⅲ 世界を裁く者。
①何が大事であったかを証言する。
* 永遠の法廷において、キリスト者は裁判官というより、証言台に立つ者、と考えたほうがよい。この世の人たちは大切なものを無視して生きていた。私たちは神を信じ、神に期待して生きてきた。だから、私たちはこれを証言することで、裁きに加わる。
②サタンの正体を暴露する。
* 「み使い」とはサタンのこと。彼はキリスト者も騙して、世の基準で生きるように誘惑してきた。信仰の戦いとは、多くの場合、サタンとの戦いであったと思う。さばきの座では、サタンは懸命に弁論するであろうが、キリスト者はそれを論破するべきである。
③キリストの贖いを賛美する。
* 世の人々は裁きの座で言うだろう。「神は助けてくださらなかった」と。このとき、キリスト者たちの神の恵みと救いを賛美することほど、神の裁きを決定付けるものはない。なぜなら、それはキリストの十字架の贖いが有効であったと証明するからである。
<結論>今、私たちが主張している不正を甘んじたら、どれほど神の義が輝くことであろうか。この世の権利を神にささげよう。そして、私たちがキリストの十字架によって救われたこと、永遠がどんなに大事であるかを、証ししようではないか。(A.S.S.)

 

8月1日の礼拝説教要旨

『キリストによる罪の赦し』(ルカ23:33~38)  2004、08、01(第一聖日伝道礼拝メッセージ)→
* 今朝は「キリストによる罪の赦し」を褒め称えたい。罪は今でも人類最大の問題である。罪に悩み苦しみ悶えている。キリストが十字架で贖いを遂げられて2000年が過ぎていると言うのに。いったい、人類は本当に罪をゆるしていただけるのであろうか。
Ⅰ 十字架の苦しみ
罪びとに数えられ(イザ53:12)。
* 主が十字架につけられたとき、二人の犯罪人が左右につけられた。こうして主は預言どおり、罪びとの列に加わられた。主は罪の世に来られ、罪の悲哀をご覧になり、自ら罪を負われ、なだめの供え物として、ご自身を罪のいけにえとしてささげられた。
②罵声を受けて。
* 十字架上の主に対して、人々は異句同音に、「自分を救え」(:35,37,39)、裏返せば、「お前はそれでも救い主か」との罵声を投げた。図らずもこれは、ねたみと傲慢と失望のことばを代表している。キリストを十字架に追いやったのは人の罪であった。
③最後まで忍ばれた(ヘブ12:2)。
* 十字架は,主にとって降って沸いた運命ではなく、どうしても遂げなければならない使命であった。主の肩には人間ののろいが、重くのしかかってきた。侮辱と辱めと、悲哀と絶望は暗闇のようにやってきたが、主は見事にそれをしのばれたのである。
Ⅱ 十字架上の祈り(:34)。
①父へのとりなし。
* 主は「父よ。」と祈られた。苦痛の中から、み父への絶対の信頼をあらわされた。この方が救いを計画され、キリストを世に遣わされた。今暗黒が地を覆っているとしても、やがて朝日が差し込んでくる。十字架上のこの祈りは、信頼と従順の祈りであった。
②敵のための祈り。
* 次に「彼らを」と祈られた。今しがた裁判で主を罪に定め、十字架に追い立てた人々のために祈られた。それは無知のためであった。この世がなお保たれているのは、キリストの祈りの故である。今なら救われる。どんなに絶望的な状況でも救われる。
③罪のゆるしの祈り。
* キリストを十字架にかけた人の罪は、本来ならゆるされるべきものではない。しかし、神の赦しは、罪が深ければ深いほど、それを頑固にゆるそうとするものである。今日もこの赦しが行われている。そして明日も、主は赦しのみわざをおこなわれる。
Ⅲ 罪の赦しとは。
①徹底した赦し(イザ1:18)。
* 神の赦しは赤と白を対象としたように、徹底した赦しである。私たちは今世界に起こっている罪深い出来事を見て、絶望することがある。しかし、神が徹底して赦して下さることは、やがて明らかにされる。十字架の血潮が罪の隅々にとどけられる。
②跡形もない赦し(イザ4:25)。
* 神がゆるしてくださったあとは、「思い出さない」と仰るが、神はそういうことができる方である。十字架の赤がべったりと塗られたとき、以前そこに何があったか分からなくなるように、神の思いから、人の罪は完全に忘れ去られてしまう。
③永遠の赦し(エレ31:34)。
* 私たちが神の国、永遠のみ国に迎えられるときには、そこにはもう罪の痕跡はどこにもなくなっていることであろう。彼のところでは、贖われた者たちの感謝の歌が、天蓋に響き渡り、賛美の歌声が、御国の隅々を巡っていることでであろう。
<結論>今日まだ、この大きな罪の赦しを確信していないのなら、心へりくだって赦しを受け取ろうではないか。十字架の赦しは完璧である。「私は罪びとです。私をあわれんでください.ゆるしてください。」この祈りを、今日ささげられるように。(A.S.S.)

 

7月25日の礼拝説教要旨

『教会内の問題』Ⅰコリント5:9~13)  2004、07、25(コリント人への手紙講解・№20)→
* パウロは社会改革にはほとんど興味を示さなかった。しかし、教会の問題となると鬼になった。あっと驚くようなこともした。それはすべて、教会を立て上げるためであった。この地上に教会を打ち立てる。これがパウロの情熱の注ぎどころであった。
Ⅰ 前の手紙の修正(:9,10)。
①第一の手紙の前の手紙。
* パウロの手紙のすべてが残っているわけではない。ここは、失われた手紙があることを示している。パウロは伝道旅行の先々で手紙を送って設立したばかりの教会を励ました。コリントの場合、問題が込み入っているため、その苦労は大変であった。
②誤解された文面。
* 「不品行な者と交際しないように」というくだりは、パウロの意図以上に拡大解釈された。パウロは教会内の問題を扱っている。同じことでも、この世の人との間と教会内とではおのずと扱いは違ってくる。混同は現在でも引きずっているところがある。
③この世から来る問題。
* この世から来る問題は神にゆだねるしかない。耐えるところは耐え、ゆだねるところはゆだね、この世にあってクリスチャンとして生きる。隠遁しても、あまりにも入り込んで、改革をしようとしても、それはクリスチャンのするべきことではない。
Ⅱ 「交際しない」の意味(:11)。
①この世の罪の目録。
* 新約聖書にはあちこちに罪の目録がある。ここには代表的な三種類が列挙されている。自分に対する罪、隣人に対する罪、神に対する罪である。この世にはこうした罪が満ちている。問題はこうしたものが教会の中にも入り込んでくることである。
②教会に入り込んできたとき。
* 個人のレベルで、自分のこうした罪と一生懸命戦っていることはある。そのときは互いに励ましあい、助け合い、罪に負けないように応援することは大切である。牧師は決して罪を責めているのではない。罪に勝つように、一緒に戦っているのである。
③「交際しない」とき。
* ところが罪を正当化し、罪を容認する教えで教会が汚染されるようなことがあれば、これは容赦してはならない。こうしたことが実際に起こったときは、断固とした処置をとることを躊躇してはならない。クリスチャンとしての交わりに一線を引く必要がある。
Ⅲ 教会での裁き。
①「外部の人」。
* 教会は外部に向かって、「福音を伝える」「愛の実践によってキリストを証する」以上のことは要求されていない。彼らがどんなに罪深くても、クリスチャンは彼らを裁く権利はない。福音を語り、あとは神の導きと愛と裁きにおゆだねすることだけである。
②「内部の人」。
* ここは自分に当てはめて考えると分かりやすい。罪との戦いで神に委ねてもゆだねても自分の責任として帰ってくる。神は助けてくださる。しかし、自分のことはしっかりと自分で決断しなければならない。これを教会全体に拡大すればわかりやすい。
③兄弟愛の実践。
* 罪は遅かれ早かれ裁かれる。社会的制裁も厳しいが、神のみ前での終末の裁きはもっと厳しい。「教会の裁き」は交わりから排除することで、これで目覚めることもある。親がわが子にむちを加えるように、こうして愛のむちを用いることも必要である。
<結論>教会が罪との戦いで、時に切開手術をする必要性が出てくる。罪ががんのように増殖していくことを食い止めなければならない。これをするべきときには、冷徹な心ではなく、愛に燃えた熱い心でするように、主に祈りたい。 (A.S.S.)

 

7月18日の礼拝説教要旨

『モーセの手にある杖』(出4:18~21)  2004、07、18(第三聖日聖別礼拝メッセージ)→
* 人の心が一人一人異なるように、信仰もそうである。主が時々、「あなたの信仰」と言われたのはそのためである。あなたの信仰は決して他の人の信仰と同じではない。「モーセの杖」は、この題目を学ぶために、最もよい教材である。
Ⅰ 神の杖
①羊飼いの杖。
* モーセは柄の曲がった羊飼いの杖を持っていた。羊飼いの仕事をするのに、大変便利にできていた。それを使って、いつもの熟れた仕事をしていたが、杖は片時も離さなかった。それは仕事上、生活のうえで、なくてはならないものであった。
②神の杖。
* 「燃える芝」の中の神の臨在に触れてからは、その変哲もない羊飼いの杖が、神の任務を遂行する上の「神の杖」となった。紅海の上に伸ばすと、水は二つに分かれた。アマレクとの戦いのときは、イスラエルの軍勢に味方するシンボルとなった。
③信仰の杖。
* 杖は、モーセの信仰が働くとき働いた。人々は杖そのものに何か力が宿っていると思ったかもしれない。民数記20:11は、非常に厳粛な出来事であった。ここでモーセは感情的に行動し、そのため神の怒りをかって、カナン入国は許されなくなった。
Ⅱ 杖の意味。
①モーセにしか役に立たなかった。
* 杖の意味をはっきりとする必要がある。この杖はモーセにしか役立たなかった。仮に誰かが神の仕事をしようとしても、その神通力を働かせることはできなかった。モーセは杖の力で使命を果たしたのではない。あくまでも御霊の力によったのである。
②後には偶像となる危険があった。
* 後にそれは契約の箱の中に収められたが、エリの時代、イスラエルはペリシテとの戦いのとき、これを持ち出した。しかしそれはただの箱であり、ただの杖でしかなかった。物体に何か神聖な力が宿ると考えたとき、それはいつでも偶像となる。
③杖はモーセの信仰をあらわした。
* 杖はモーセの信仰をあらわしたように、クリスチャンはみな、自分の持っている賜物で信仰をあらわすべきである。神はバラエティーに満ちた人材によって、神の御国の建設をしようとしておられる。これは神との関係であって、人は誰も介入できない。
Ⅲ あなたの信仰。
①それぞれの賜物。
* すべての人はそれぞれに神から賜物を授かっている。財、才能、チャンスだけではない。弱さ、欠点と言われるものまでが、信仰によって神の栄光をあらわす賜物となる。それらはあなたにとっての杖であり、神に差し出すことによって、生かされる。
②神にお返しする。
* 時には「自分らしさ」と考えることができる。それも神から頂いたものである。ほとんどの人はそれを自分を生きる権利と考えている。しかし神は、「あなたらしさ」を、神のご栄光のために用いたいと願っておられる。ですから、神にお返しすることである。
③それは栄光をあらわす。
* 賜物は、磨かれたものもあれば、蔵入りしているものもある。五つのパンを持っていた子どものように、主に差し出そう。主はそれを何倍にも増してお用いになる。私の人生を通して、神が栄光をあらわしてくださるとしたら、こんな素晴しいことはない。
<結論>クリスチャンとは、神が私たちの人生を助けてくださることであり、私たちが神のために生きることである。すなわち、神との間にやり取りが行われる生き方をすることである。ですからあなたの手にある杖を、主に差し出そうではないか。(A.S.S.)

 

7月11日の礼拝説教要旨

『パン種の入らない祭り』Ⅰコリント5:6~8)  2004、07、11(コリント人への手紙講解・№19)→
* 「心の宗教」を確立することがどんなに困難であるか。コリントの問題はこれであった。生まれつきのままの人は、霊的な事柄を認識することは不可能である。どうしても生まれ変わって新しい人になる必要がある。パウロはこれを確かめたかったのである。
Ⅰ パン種の危険性(:6)。
①パン種とは何か。
パン種(イースト菌)は、醗酵の過程で炭酸ガスを出す。それがパンを膨らませる。イスラエル人はこの醗酵を酸敗同様に腐敗と同じと考えた。コリントの教会では分派心が我が物顔に横行していた。ある場合には「競争心」ぷんぷんということもあった。
②高慢。
* 人がどうあろうと、常に神を意識する。これを謙遜という。神をあまり意識しないで、人の目を意識する。これを高慢という。こうしたところでは、規律や律法で規定しなければ、人の心の腐敗性が、たちまちパン種のように、心から心へと汚染していく。
③影響力。
* 宗教は律法でしか形作れないのか。これは絶えず教会を悩ませてきた問題である。自由意志は結局、パン種を野放しにすることになるのか。一人一人を神の前に連れてきて、敬虔を根付かせることは不可能なのか。悪の影響力はいつも甚大である。
Ⅱ パン種の除去(:7)。
①旧約の過越し。
* イスラエルでは1月14日に過越しが祝われた。その日、家中からパン種は除かれ、種を入れないパンを焼き、それを過越しの小羊の肉を焼いて青菜とで食べる。こうした祭りは、イスラエルでは今年も厳格に守られた。それはテレビでも放映された。
②新約の過越し。
* クリスチャンは「キリストの十字架」によって、悪のパン種は除かれ、「新しい粉のかたまり」とされた、と信じる。過越しの小羊であるキリストがささげられたとき、罪と悪と汚れはみな除かれた。イエスから目を離さないこと。これがきよきを保つ、ただ一つの道である。
③異物の除去。
* 信仰者は目をキリストから移してこの世に向けると、いろいろなパン種が飛び込んでくる。もしそうだとしても、払いのければそれでよい。所詮は降りかかる粉であって、のぞけば、それの影響は受けることはない。こびりつかないうちに除くことである。
Ⅲ パン種の入らない祭り(:8)。
①祭りとは。
祭りとは礼拝のことで、その真義はローマ12:1,2にある。世の精神を心から排除し、神に傾倒すること、これを「霊的礼拝」としている。主も「霊とまこと」によって礼拝すべきことを教えている。このためにはまず、霊的な生まれ変わりがなければならない。
②神と会うところ。
* パン種を完全に除いたところに、神は来てくださり、そこでお会いすることができる。パン種を残しておいて、神不在の礼拝を行うことのないようにしなければならない。霊なる神とお会いできるのは、パン種を除いた、霊とまことにおいてだけである。
③純粋で真実なパンで。
* だからパウロは、「純粋で真実なパンの礼拝」をしようと招いている。クリスチャンはこの世に飽き飽きしたいものである。もっと純粋に、パン種のないところで、神と顔と顔とをあわせてお会いする、そんな礼拝をしたいと切に切に願うものである。
<結論>世に生きている限り、生活の中に心の中に、パン種が混入してくることは避けられないかもしれない。しかし、それを見つけては取り除くことはできる。それを心の中にねかせて醗酵することを許さない。これを心がけることである。(A.S.S.)

7月 4日の礼拝説教要旨

『人知を超えた愛』(エペソ3:14~19)2004、07、04(第一聖日伝道礼拝メッセージ)→
* 人は愛を求めている。それは轟音となって世界中にとどろいている。人は愛を求めて争い奪いあい、ラッパを弾き鳴らしている。愛はあるのだろうか。神はおられるのだろうか。それでいて、何の手ごたえもなく、何の応答もないのはどうしてなのか。
Ⅰ 愛は何処にあるのか
①愛を求めて。
* 今朝は臨床的なお話をしたい。一人の人が愛を求めた遍歴を想定して、今まで聞いたいろいろな人の体験をもとに構成を試みた。これは愛を求めた軌跡である。人は生れ落ちた瞬間から何かを熱烈に求めているかのように、宙を掴んで生まれてくる。
②あきらめの中に。
* しかしこの激しい思いをストレートに表すことは、何かとトラブルの原因になる。常識的な人は、ある程度のところで妥協し、この辺だろうと言うところであきらめ、満足はしていないのだけれど、変人になることは避ける。しかし、真実は満足していない。
③自分を見つめる時に。
* 私の体験では、夜中にふと目覚める。自分の心の中の物凄いものを見せられる。愛を得ようとすることどこか変である。まず自分を何とかしなければならない。ある意味でほんとうの求道はここから始まる。愛し愛される人間になることが先決である。
Ⅱ キリストとの出会い
①十字架上のキリスト。
* 人はほんとうに愛される人間となることは可能なのか。これに直面したときに、失望は深刻となる。この時に、キリストと出会える人は幸いである。キリストの十字架は私の罪の身代わりであったと知れば、人は、ただ救い主におすがりするのみである。
②「信じます」。
* 「信じます主よ」どんなに頑固な人も、このように祈ることができる。なぜなら、十字架が理解されたとき、キリストの愛に触れたからである。信仰は神からの賜物として与えられる。神が差し出してくださることに逆らわなければ、信仰は日々に脹らんでいく。
③キリストの愛を知る。
* 信じた最初のころを覚えておられるだろうか。何もかもが新しい経験であった。神を経験することは日々にスリリングであった。神の愛を知ることができたことが、毎日を新しくし、幸せであった。多くのクリスチャンはこうした幸いなときを過ごした。
Ⅲ 愛の深みに
①問題は自分。
* しかし、自分の中にまだ問題が残っていることを知るときが来る。すべて御心に従えるわけではない。最後の大事なところでは自分を手放そうとしない。神と私との間に、淵があることを知らされるにつれ、今度は別の苦しみが襲ってくることになる。
②自分を捨て、十字架を負って。
* 強情な私をもなお十字架で迫ってくださる主の愛を知ったとき、「自分を捨て」は乗り越えるべき淵ではなく、主の愛に満ちた招きであることが分かる。十字架の向こうに復活がある。痛みはほんの瞬間であって、その殆どは主が負ってくださっている。
③愛に生きる。
* 人から見れば茨の道でも、主の愛に生きる者には、主とともなる道は花園である。主に従うことの喜びを知る者となる。もう何があっても主から離れることはない。このような生き方が輝かないはずがない。それは神の愛の素晴らしさを輝かす生涯である。
<結論>「人知を超えた愛」それは見るまでは、人は信じもしないし本気にもしない。しかしそれはある。それは私の生涯を通して表すことができる。このように、神の愛を受け、その愛に生きることは、神の協力者になることである。(A.S.S.)

6月27日の礼拝説教要旨

『ふりあげたむち』(Ⅰコリント5:1~5)2004、06、27(コリント人への手紙講解・№18)→
* コリントの教会で起こったことは、クリスチャンにとっても最悪のケースである。その最悪の場合でも、最終的には「魂の救い」が考慮されなければならない。これがパウロが取った処置の真の意味がある。ここに愛のむちの厳しさを見せられる。
Ⅰ むちが必要なわけ。
①不品行が行われている。
* コリントの教会に「不信者にもない不品行」があると報告された。洗礼を受けた者はどこまでもクリスチャンである。罪を犯したとしてもクリスチャンである。しかし、このままでよいわけがない。パウロがむちを振り上げなければならないのはこのためである。
②誇り高ぶっている。
* 教会は、こうした状態があるにもかかわらず、見て見ぬ振りをしていた。これをパウロは「誇り高ぶっている」という。神の御心を痛めていることに、もっと真剣にならなければならない。にもかかわらず、平気であることは、神を無視した高ぶりである。
③主イエスの臨在が忘れられている。
* さらに彼らは、パウロが教会に来たとか来ていないとかで態度が変わった。これは主の臨在を無視した感覚である。パウロがいようがいまいが、主は常に臨在しておられる。主の心とパウロの心は一つである。どんな時にも御心を求めなければならない。
Ⅱ 罪と戦う教会
①へりくだる。
* 教会での罪との戦いの場合、神は決して罪を見過ごしにはなさらないことを忘れないこと。人間の努力では罪に勝てない。へりくだって主に求めるとき、主は十字架の上にすでに罪と戦い勝ってくださった。だから「へりくだり」の心を失ってはならない。
②兄弟を戒める(マタ18:15~17)。
* 「罪を犯した兄弟」への対処は、すでに主の教えがある。ここで教会は注意深く、しかしきっぱりと、罪と向き合うべきことが教えられている。人にはどこまでも愛をもって接するべきであるが、罪を大目に見ることはあってはならない。これが原則である。
③最後的手段をとる。
* それでも、最後の手段をとらなければならないときがある。その兄弟を守ろうとすると、教会の交わりが壊れると言う場合である。こうした時、牧者は教会を守る。経験から言って、牧者にとっても大変な心痛であるが、どうしても、やむ終えない場合がある。
Ⅲ 主の日の救い
①サタンに引き渡す。
* こうした場合、パウロは「サタンに引き渡す」と言う。これは教会の交わりから追放することを言う。罪はいやされるときもある。しかし、心の根、反逆心に根ざしているときは、切り取る以外に方法がない。こうして彼はサタンの支配下に置かれることになる。
②肉が滅ぼされる
* 再び救われる以前の罪の災いが戻ってくることがある。これを「肉が滅ぼされる」と言う。一度キリストの平安を経験した者が、再び罪の苦しみを背負うことは大変なことである。場合によってはこれが肉体の病となり、死にいたるほどの苦しみとなる。
③霊が救われる
* パウロは霊を持ってここまで見通しながら、「サタンに引き渡す」ことをするのは、憎しみからではない。魂は苦痛の中でしか神に叫ばない。「滅び」すらも、彼にとって、救いの機会となる。もしその可能性があるなら、パウロはあえてそうすると言う。
<結論>みきわめは「へりくだり」である。自分に固執し、神を軽んじる高ぶりがあるなら、「サタンに引き渡す」。ああそんなことがあってはならない。罪をもっていたとしても、それを隠してはならない。神のあわれみと救いに、それをゆだねよう。(A.S.S.)

6月20日の礼拝説教要旨

『奇跡はなかったが』(ヨハネの福音書10:40~42)2004、06、20(第三聖日聖別礼拝メッセージ)→
* 今朝のテーマは「真実」である。真実とはその人のことばが本当であることを言う。語ったことばが信用できることを言う。ヨハネは一つもしるしを行わなかったが、そのことばは真実であったと評価された。人にとってこれ以上の評価は望めないであろう。
Ⅰ ヨハネの生涯の特色。
①奇跡的な誕生。
* 使徒ヨハネは、バプテスマのヨハネについて、「しるしを行わなかった」と評したが、これとは裏腹に彼の誕生は奇跡的であった。その消息は、ルカ1章の前半に記されている。父ザカリヤは、御使いのことばを信じなかったため口が利けなくなった。
②悔い改めのバプテスマ。
* 彼はAD26,7年ごろ、突然現れ、ヨルダンのほとりで「悔い改めのバプテスマ」を説いた。人々は大挙して彼の許に集まり、その説教に耳を傾け、バプテスマを受けた。それはリバイバルと呼ばれるものであって、久しぶりに人々は宗教的に目覚めた。
③真実な証言。
* 後にヨハネが師ヨハネの生涯を思い起こし、その証しはみな真実であった、と書いた。人は大きな業績を残したいと願う。ヨハネの運動は、火のように燃え、潮のように引いた。後に残ったのは、彼が主イエスについての証言が真実であったことである。
Ⅱ 主イエスとの関係において。
①先備えの奉仕。
* 彼の奉仕を、主イエスとの関係で見ると、ちょうど半年前に奉仕を開始し、主を指して「神の小羊」と証言して、数名の弟子を主の許に送った。彼は王の前を行く奴のように、その奉仕を忠実に果たした。主の登場にあわせるようにして退場していった(3:30)。
②奇跡以上の奉仕。
* ヨハネは何一つ奇跡を行わなかった。奇跡をしたから偉大なのではない。主はパリサイ人がしるしを求めたとき、譴責しておられる(マタ12:39)。弟子たちが悪鬼を従わせたとの報告に、それ以上に天に名が記されたことを喜べと言われた(ルカ10:20)。
③奉仕を終えるとき。
* ヨハネは自分の奉仕の範囲を弁えていた。奉仕者は神の働きのある部分を担当しているに過ぎない。手の人もいれば、足の人もいる。もっと目立たない部分の人もいる。人はその役をすればいい。だから彼は退くとき、見事に退くことができたのである。
Ⅲ クリスチャンに求められるもの。
①神との関係
* このヨハネの奉仕から、クリスチャンに求められることが見えてくる。第一は神との関係である。神のための奉仕もいつか神不在のものになる可能性がある。自分の思い、名声、夢、計画が優先する。こうして神の働きが何処かに行ってしまうことがある。
②人との関係
* 神の奉仕は人の好意を勝ち取るものではないが、また人の思いと無関係のものでもない。人々を神の国へと招き入れるものでなければならない。神と人とを結ぶもの、これが神のための奉仕である。私の存在が、人々に神を証しするものとなりたい。
③自分について。
* 自分が真実かどうかを知っているのは、心の中を見られる御霊と自分である。人の目を欺いても、自分を欺くことはできない。「真実」は自分の良心において、厳しくチェックされる必要がある。何が御心かを知るとき、自分の確信に立つことができる。
<結論>「真実」を尺度として、神との関係、人との関係、自分自身について、省みるときをもつこととしよう。「自分を欺く」ことから、「真実」が失われることがある。もう一度「真実」を取り戻すために、神の前にありのまま出ることにしよう。(A.S.S.)

6月13日の礼拝説教要旨

『思い上がっている人たちへ』(Ⅰコリント人への手紙4:14~21)2004、06、13(コリント人への手紙講解・№17)→
* 教会に霊の空気ではない別の空気が入ってくることがある。それらのほとんどは、人間の頭から出てきたものである。パウロがここで、対決しようとしているのはこれである。知識は人を誇らせる。この誇りは、実は教会を毒するものである。
Ⅰ パウロにならう者(前回の復習)。
①4章前半の意味。
* 4章前半は、かなり皮肉たっぷりのことが書いてある。コリントの人々は、世的な祝福を誇ったが、パウロは自分たち神の働き人は、この世の見せ物となったと言う。なぜ、こんなことまで書いたのか。それは愛する子どもとして「さとすため」であった。
②親と養育係。
* パウロはコリント人との関係をもう一度明示している。パウロがコリントに来て伝道し、その結果、彼らはクリスチャンとなった。このことは福音による親子関係である。他の人は養育係である。この関係に、福音の力を見失わない、秘訣がある。
③「福音の力」を見習うこと。
* 福音を受け入れたとき、罪の赦しの確信、心の平安と喜び、永遠のいのちへの希望、罪に勝つ力など、実質的な力が伴う。パウロ自身この福音の力に生きた。パウロが常に願ったのは、この生き方を救われた人々に生きて欲しいと言うことであった。
Ⅱ テモテを派遣する理由。
①生き方の見本として。
* 大切なのは、福音の力に生きるこの生き方である。ところがコリント人は、他の教師の影響で、正統性を語ることばに重点を置くようになった。それで、テモテを派遣することにした。もう一度、クリスチャンの生き方の見本を示すためであった。
②パウロの生き方を思い起こさせるため。
* パウロは手を取るように、信仰によって罪の赦しを確信すること。祈りによって神の約束にすがること、不安の中で永遠の希望に安息を見出すことなど、実際の指導を行ってきたが、それは忘れた様子であった。これを思い出させることも必要であった。
③ことばではなく行動。
* テモテは議論に明け暮れている人々を集め、魂の実際的指導を行うことになった。まず、自分の救いが確かかを確認させる。問題に直面したとき、祈りの仕方を教える。こうして、クリスチャンとしてどう生きるかを、指導することが求められた。
Ⅲ パウロ自身が行くとき。
①思い上がっている人たちのため。
* もし、テモテでも、成果が上がらなければ、パウロは自分が行くことも考えた。そのときはかなり厳しい状況になることも予想された。テモテが行ってもなおことばを誇る人がいれば、それは思い上がりである。教会にこうしたことがあってはならない。
②キリストにある生き方のため。
* 信者は、この世の空気ではない霊の空気を吸って生きる者となる。これが、イエス・キリストにある生き方である。パウロが行ったときは、「福音の力」が示されない生き方を認めない。彼らがどんなに言葉巧みであっても、それは神の国とは関係ないとする。
③むちと優しい心を持って。
* 教会に「福音の力」ではない違った原理が入り込むことを、パウロはゆるさない。コリントの現状を考えると、鞭か優しい心か、どちらかを用いなければならない。それは彼らの態度にかかっている。パウロはその選択の余地を彼らに与えている。
<結論>「福音の力」がないところにはいのちもない。クリスチャンはいのちのないところで満足してはならない。私の魂に今現在、神の力が働いているか。自分がクリスチャンであることを、ことばで説明するよりも、力で示す者であるように。(A.S.S.)

6月6日の礼拝説教要旨

  『キリストに繋がれて』(ヨハネの福音書15:1~9)2004,06,06(第一聖日伝道礼拝メッセージ)→
* 久しぶりの伝道礼拝であるが、初心の方々は、自分のためと思って聞いていただきたい。今朝は、キリストとの関係がいのちの関係であることを、明らかにしたいと思う。キリストをいのちの源泉として、受け入れる。これが人生において大切なことである。
Ⅰ ぶどうの木の譬え。
①幹と枝の関係
* 昔、教会の庭にぶどうの木があったが、根っきり虫がついて、根元が細ってしまった。葉はしぼみ、ついに実のならない枯木となった。根、幹、枝が繋がって、ぶどうの木は葉が茂り、実をならせることができる。このようにいのちには関係が大切である。
②樹液の流れ
* 夏の茂りのとき、木の幹に聴診器を当てると、“ドクドク”と、樹液が循環している音が聞こえると言う。これは植物にとっては血液で、根からの養分を木全体に届け、光合成によってできた有機物質を分配する。いのちはこのように連携プレイをしている。
③切り離された枝
* 木から切り離された枝は、しばらくは葉の緑を保っているが、それは時間の問題である。樹液の流れは止まり、いのちの活動はやがて停止する。枝は孤立しては決してそのいのちを支えることはできない。これはいのちあるものの厳粛な事実である。
Ⅱ 人は何によって生きるのか
①自然の恵み。
* このように、植物でも動物でも、いのちあるものは自然の恵みと離れて存在しない。燦々と照る太陽のもと、肥えた土地、流れの畔で植物は繁茂するようにできている。寒さや風に耐える時もあるが、それはごく暫くのことで、恵みは必ず戻ってくる。
②もっと大きな恵み。
* 自然の恵みは肉体だけでなく、心も豊かな自然を求めて、山や海に出て行く。そこで心が洗われる。しかし人間のもっと奥深く、魂では、もやは自然はとどかない。もっと大きな恵みを必要としている。魂は自然以上のもの、神を慕って止まないのである。
③神を必要としている
* 人間の深い所は、神だけが訪れることができる。ある大きな悲しみに出会った人が、人のどんな慰めのことばも受け入れることができなかったが、聖書に出会い、そこにある神のことばによって、魂が触れられたことを知った。人は神を必要としている。
Ⅲ キリストに留まる
①キリストを救い主として受け入れる。
* 映画「パッション」によって、キリストの十字架の苦難が明らかとなった。なぜあの苦しみが必要だったか。それは救い主としての苦難であった。キリストは苦難によって救い主となられた。私たちは魂のいのちとして、この救い主を受け入れねばならない。
②いのちの流れのはじまり。
* あの映画では、キリストの血は一滴も残りなく、地に注がれた。神のいのちが地に注がれたのである。十字架は人の魂のいのちの源である。人々はこのいのちの源に来なければならない。キリストを信じた人とは、このいのちの源に来た人のことである。
③今日、キリストを受け入れるように。
* 幹から切り離された枝のように、あなたの魂は息絶え絶えになっていないか。いのちの流れは、あなたのすぐ側を流れている。この方の許に来ようではないか。そして我慢の意地を捨ててへりくだり、主が差し出された救いを受け入れようではないか。
<結論>肉体もいのちなら、魂もいのちである。人の奥深くには、物質的なもの、人のことばすらもとどかな部分がある。そこはいのちの根源なるお方、人ととなられたキリストだけが、訪れることができる。心を開いてこの方を受け入れよう。(A.S.S.)

5月30日の礼拝説教要旨

  『五旬節の日になって』(使徒の働き2:1~4) 2004.05.30(ペンテコステ礼拝メッセージ)→
* 五旬節、ペンテコステ、聖餐式。毎年のように巡り来る節期であるが、おざなりにならないようにしたい。そのためには。私たち一人一人が「聖霊の満たし」に心を向ける必要がある。これが実現してこそ、ペンテコステに意味があると言える。
Ⅰ 何があったのか。
①五旬節の日。
* ユダヤ人には特別の日であった。そのため(エルサレム)市中はごった返していた。弟子たちは部屋にこもり、ひたすら祈り続けた。彼らにとってそれは主を天にお返ししてから10目のことであった。使徒の欠員補充などがあったが、ほとんどは祈りに専念していた。
②大きな響き、炎の舌。
* 五旬節の日、突然、部屋全体に風の音、炎の舌があらわれ、そこにいた人々は何が起こったのかと心を集中した。使徒たちは主が約束されたその日が来たことを実感した。ペテロは、ヨエルの預言を思い起こしたことを彼の説教の中に反映している。
③聖霊に満たされ。
* 約束の聖霊は、そこにいる人全員に注がれたが、また一人一人に注がれた。外的な現象以上に、このとき彼らのうちになされた内的な変化は著しいものがあった。彼らが他国のことばを語ったことは、他の二つのしるしと同様、象徴的なものであった。
Ⅱ どうして聖霊は下ったのか。
①弟子たちの空白。
* 私たちも「聖霊に満たされる」ことが要請されている。だからこれが起こったメカニズムは重要である。弟子たちは主の十字架、復活、昇天を通して、完全に心は空白になっていた。何かによって満たされなければ、一歩も前に進まない状態であった。
②十日間の祈り。
* この心の真空状態が、バキュームとなって、彼らを祈りへと駆り立てた。主は「求めるなら」と言われたが、まさに彼らは求めて求めて求め続けた。父の約束を満たしていただく。彼らにはこの必要以外は何もなかった。それで彼らは10日間祈り通した。
③明け渡された心。
* それは、単一の心のことである。彼らの心は迷いなく、ただ一直線に、主に向けられていた。それは雛鳥が親鳥に向かって口を大きく開けているように、もうただそのことに集中していた。聖霊が下るためにも、この準備された心が不可欠であった。
Ⅲ なぜ降臨はなければならなかったか。
①神のイメージどおりに。
* 神は人間を創造されたとき、完成のイメージを持っておられた。アダムの堕罪によって横道にそれたが、神は決してあきらめてはいない。それが、十字架の赦しと、聖霊の注ぎである。完全な完成は天においてであるが、今は聖霊が注がれることである。
②神の証人となるために。
* 次に、神が人間の救いを遂行しておられることを証しすること。人間の心は器で、そこに聖霊が満たされねばならない。人々は自分の心の空白をどうすればよいか分からないでいる。ですから、弟子たちはその見本とならなければならなかった。
③福音を全世界に満たすために。
* 旧約の関心は、イスラエルに限定されていた。神は全人類を見捨てたわけではない。弟子たちに、福音を全世界に伝えることを命じられた。この命令を教会が受け継いできたことは歴史が証明している。このためには聖霊の注ぎがどうしても必要である。

<結論>「五旬節の日」となった。それは聖霊が下り、一人一人に聖霊が注がれた日である。今日、私たちもこのことに心を集中しよう。現代への証しのためには、現代人に聖霊の満たしが必要である。主が愛兄姉に聖霊を注がれるように。(A.S.S.)

5月23日の礼拝説教要旨

  『もう一つの準備』(使徒の働き1:15~26)2004,05,23(聖霊待望礼拝メッセージⅢ)→
* 次週、私たちはペンテコステを迎える。この節期を向かえるごとに私たちが記憶しなければならないことは、今は聖霊が信者のうちに宿り、そこから時代に向かって働いておられることである。聖霊はご自分のからだとして信者を必要としている。
Ⅰ 墓前に立って。
①教会墓地への道。
* 18日、牧師は2人で春日部の教会墓地を訪れた。野田線の八木崎で降り、春日部高校の左塀を回って、国道16号を渡り、工場団地の間の道をひたすら北に進むと北春日部の駅に出る。陸橋を渡り古利根川の土手を西へ進むと教会墓地へとたどり着く。
②墓前での祈り。
* 2001年の May Special の後、S.O.姉妹の召天という出来事があった。私たちの教会では5月はそういう時である。ここから墓地建設の問題が起こってきたが、そうしたことを思い出しながら、墓前で祈った。神の不思議な摂理を感じ取っていた。
③墓地と伝道。
* 教会にとって墓地が与えられたことは大きいことである。私たちに永遠を見つめる場所が与えられたこと。人々に永遠の希望を提示しながら、伝道できるようになったこと。こうしたことを考えると、墓地は神さまからの教会への大きなプレゼントである。
Ⅱ 新しい時代への備え。
①十二使徒の補充。
* 使徒たちは、聖霊待望の祈り会とともに、新しい時代に備える相談会を持った。この時の最大の議題は、ユダの裏切りによって欠員となった使徒の補充であった。何故か使徒は12人でなければならない。彼らの心にはまだイスラエルの再興があった。
②人間的な評価。
* しかし、この補充はあまり意味がなかった。無駄だったと評価する人もいる。その後の歴史に何の痕跡も残していない。効率とか、有意義とかを求めるのは人間である。無駄に対しては厳しい。彼らはただ゙ひたすら祈っていればよかったと人は言う。
③神の評価。
* しかし神は心を見る。たとえ300デナリの無駄でも。使徒たちは新しい時代を認識し、このために心は燃えていた。自分たちは何かしなければと思っていた。神はこれを見ておられた。情熱があれば、神は聖霊を注ぎ、それを神のために用いられる。
Ⅲ 私たちへの教訓。
①時代は区切りに来ている。
* 21世紀は、時代の区切りである。主の存命の30年のように、これから30年は重要なときである。これからの時代は下降線をたどる。人々が神に目を向けるためにはなくてはならない時代の流れである。弟子たちのように時代の認識を持つべきである。
②私たちの内におられる聖霊が鍵である。
* もう、人間の知恵はほとんど役に立たない。これからは、「あなたは信者として聖霊を宿しておられますか。」この質問が重要となる。信者のうちに宿っておられる聖霊様だけが、今の時代に働きかけて、神のいのちを吹き込むことのできるお方である。
③聖霊が天に引き上げられるまで。
* 今、信者を通して働いておられる聖霊は、ペンテコステに下って来られた方である。2000年この地上で働いて来られた。もう間もなく区切りの時が来る。主が空中まで来られる時、信者というご自分の肉体とともに、聖霊もその空中まで引き上げられる。
<結論>さあ、聖霊様のために、私たちの心を明け渡し準備しよう。聖霊様の最後の働きのために、私の肉体を提供しよう。もう間もなく主は来られる。主が引き上げられるのは、聖霊である。そして聖霊が私たちを引き上げられるのである。(A.S.S.)

5月16日の礼拝説教要旨

  『屋上の間において』 (使徒の働き1:9~14)2004,05,16(聖霊待望礼拝メッセージⅡ)→
* 「父の約束」は、弟子たちにとって未経験であった。しかし彼らは主を信じて進んだ。これが、信仰の挑戦の基本である。「恐れないで」一歩進むとき、人の思いを超える神の祝福が待ち受けている。聖霊はすべての信仰者のために用意されている。
Ⅰ オリーブ山で。
①上って行かれるイエス。
* 主が弟子たちの見ている前で、空中へと上って行かれる様子が、かなり詳細に記されている。弟子たちは主が、何処に行かれたかを、目でもって確認することができた。もはやこの地上にいないことは明らかである。主は天へと身を移されたのである。
②天を見つめる弟子たち。
* 弟子たちはいつまでも天を見上げていた。主がもう地上にはいないことを認めざるを得なかった。この事実を受け入れるのに時間がかかった。彼らに残されたのは、「父の約束を待ちなさい」という主のお約束だけであった。そこに御使いが現われた。
③御使いのメッセージ。
* 「主は上って行かれ、またお出でになる。」これが御使いのメッセージの中心である。今までとは違う新しい時代が来ようとしている。主の誕生のときのように、新しい時代はこのようにしてやってくる。「父の約束」とは、どういうことなのだろうか。
Ⅱ エルサレムヘの道で。
①山を下る。
* 「よし,行こう。」彼らは互いに掛け声をかけあった。エルサレムで何が待ち受けているとしても、彼らの進むべき道はこれしかない。迷いを払拭しながら、山を後にして、エルサレムへと向かった。それはちょうど、十字架の一週間前と同じ道であった。
②エルサレムに入る。
* エルサレムに入ると、あのときの興奮は何処にもなかった。またいつもの市内に戻っていた。新しい時代が来ようとしている兆候は何処にもなかった。ただ、弟子たちの心に「父の約束」ということばが、つむじ風のように飛び交っているだけであった。
③屋上の間に上る。
* ここは最後の晩餐が行なわれたところである。一説によると、寡婦となっていたマルコの母の家であった。すでに彼らを迎え入れる準備ができていた。ここでするべきことは、「待つ」ことであった。彼らだけでは一歩も進まないことはわかりきっていた。
Ⅲ 屋上の間において。
①集まった人々。
* 弟子たちが部屋に入ると、何処からともなく、主の弟子たちが次々と集まってきた。婦人たちも集まってきた。エマオに下っていた二人の弟子も戻ってきていた。いろいろなところから弟子たちが戻されていた。最終的には120名が屋上の間に集まった。
②心を合わせ。
* 支流がだんだん集められ本流となり、一つの滝になだれ込むように、弟子たちの心は一つの思いに合流された。「主よ。私たちにお約束のものをお与えください。」未経験であるため、それが何を意味するかは分からなくとも、彼らは熱心に求めた。
③祈りに専念した。
* 祈祷会は十日間に及んだ。この祈りの情熱はどこから来たのであろうか。私たちの経験では、あるときは祈りたいという衝動に駆られるが、あるときはなかなか進まない、ということがある。弟子たちの心は真空になって、掃除機のように、主を求めた。
<結論>弟子たちは主を取られた後の空白を、「父の約束」にかけた。空白が襲ってきたときがチャンスである。「父の約束」は主の生涯と十字架と復活を通して準備してくださったものである。私たちも聖霊を求めて切に祈ろうではないか。(A.S.S.)

5月 9日の礼拝説教要旨

  『聖霊の約束』(使徒の働き1:1~8)  2004,05,09(聖霊待望礼拝メッセージⅠ)→イースターからペンテコステまでは7週間で50日ある。使徒の働き1章には40日間の顕現の最後の場面と、屋上の間の10日間の記録がある。ちょうど、主の昇天の直前、主は重要な約束をされた。「父の約束」これを今朝、再認識することとする。
Ⅰ 主によってなされた準備(:1~3)。
「前の書」に書かれてあること。
* ルカは二つの書を書いた。「前の書」とは、「ルカの福音書」のこと。そこには「主イエスが行ない始め教えはじめられたこと」が、ルカの歴史家としてのタッチで記録されている。この二つの書が献呈された「テオピロ」と言う人物については定かでない。
主の十字架と復活、召天
* 主の十字架と復活、40日間の顕現と天に上げられたことという彼の「福音書」の記録は、これから弟子たちによって始まる神の大事業の準備であった。福音書はそれを読む者が神からの使命を受け取って、奮起するためにかかれたものである。
③ご自分が生きていること。
* しかし、そこに投げ出された使命はあまりにも巨大なものであった。誰がこれを担うことができるであろうか。使徒たちと教会がこの使命を前にして、主イエスが過去の人ではなく、今現在生きておられる方であることを、どうしても確認する必要があった。
Ⅱ これから始まること(:4~5)。
①「エルサレムを離れないで
* ではどうすればよいのか。主は「エルサレムを離れないで」と仰せられた。エルサレムで主は十字架につけられ、復活し、ご自身を顕し、天に帰っていかれた。彼らはこの事実から決して離れてはならなかった。すべてはここから始まるからである。
②「父の約束を待ちなさい」
* 主イエスによる準備のときは終わった。いよいよ弟子たちを通しての実行のときが来た。しかし、その前にしなければならないことがある。それが、「父の約束」であった。これは神の事業である。神が開始される。弟子たちは、それを待たねばならない。
「聖霊のバプテスマ」
* バプテスマは心に神のみ業が始まる象徴である。そして聖霊は実際にそれを執行される。これによって聖霊は人の心に内住を開始される。クリスチャン経験でこれほど特徴的なものはない。パウロはこれがクリスチャンのしるしであるという(ロマ8:9)。
Ⅲ スタートのために(:6~8)。
①「時」について。
* 弟子たちの時に関する質問は、彼らのメシヤ観がまだ通俗的であることを示している。しかし、彼らはまもなく聖霊を受ける。そうすればこの問題は解消される。私たちもこれに似たことは経験している。聖霊の影響は人の感覚、思想にも及ぶものである。
②「力」について。
* カヤパの庭でのペテロの失敗は、人間の頑張りや力は神の国の働きには通じないことを示した。しかし聖霊を受けるなら、その人のものでない力が注がれ、驚くべき力を発揮する。祈り、誘惑、困難、奉仕、人生のさまざまな場面で、この力は働く。
③「証人となる」について。
* 最大の効果は「キリストを証しすること」において発揮いされる。証しとは、人間には考えられないことが人間を通して表されることである。このとき人々は神の実在を見る。こうしたことがない限り、人はキリストを信じない。私たちは証人となる必要がある。
<結論>私たちがクリスチャンとしての無力を感じるなら、聖霊をまだ経験してないからかもしれない。聖霊は、求める者には誰にでも注がれることが、父の約束として与えられている。求めよう。そして主の証人としていただこう。(A.S.S.)

5月 2日の礼拝説教要旨

  『いっさいの権威を持つ主』 (マタイの福音書28:16~20)  2004,05,02(イースター礼拝メッセージⅢ)→
* 地上の主が天上の主へと移行されるとき、弟子たちはそれを見届ける必要があった。イースター礼拝の最終回に、私たちも主の最後のことばに耳を傾けよう。現在も主が臨在しておられることを、私たちが実際にどう経験しているかを確認したい。
Ⅰ 権威の確認(:16~18)。
①指示された山に集まってきた。
* マタイ26:32では、「ガリラヤ」とだけあるが、恐らくこの時、ある山を指示された。それは弟子たちには思い出のある山であった。弟子たちはこのとき11人が、そこに集まった。復活の主は栄光輝く威厳に満ちたお姿で現れた。彼らは思わず礼拝した
②イエスを礼拝した。
* 変貌のお姿を見たことのある弟子たちはそれを思い出したかもしれない(17:2)。このときはイエスが神であられることは疑う余地はない。それでも疑う弟子がいた。それほどに復活は信じがたいことであったが、イエスが神であることには間違いない。
③権威が宣言された。
* 「天と地」は神の創造の全領域である。イエスはすべての領域において父なる神から「いっさいの権威」を授かった。過去、現在、未来、見える世界、見えない世界、神の国とサタンの王国、人の心の深層、主はすべての権威を行使すると宣言された。
Ⅱ 権威ある命令(:19~20a)。
①「弟子としなさい。」
* 主はその権威を目的を持って行使される。主は弟子たちに人々のところへ行って福音を語り、彼らを回心に導き、イエスの弟子とすることを命じられた。信じた人は、本能のように、愛する人がこの信仰に導かれることを願う。これは内なる命令である。
②「バプテスマを授けなさい。」
* 第二も重要な命令である。主は弟子となるための関門を設けられた。バプテスマはそれを象徴する。信仰を告白し、父と子と聖霊の名によって洗礼を受けた者は、主の弟子である。主は誰がご自分のものか、誰がまだそうでないかを知っておられる(ヨハネ10:14)。
③「教えなさい。」
* クリスチャンとしての歩みは内なるいのちと、みことばの知識によって達成される。このためには説教、証し、交わり、奉仕が重要となる。お互いは大人としての扱いを受けているが、間違いなく教育を必要としている。謙虚になって成長を目指したい。
Ⅲ 権威ある方の臨在(:20b)。
①主ご自身が。
* 今は相対化の時代、権威が軽視される時代である。もし教会がこの世の波に流されることがあたら、危機である。キリストの権威の中にとどまることを確認する必要がある。主は無限の愛のお方、このお方の臨在の中に、しっかりととどまり続けよう。
②世の終わりまで。
* 時代の変化が常に教会を揺さぶり続けてきた。現在、また新たな波が押し寄せようとしている。思想はファッションとしてやってくる。過去の固執が最善であるわけではないが、主の権威を受け入れる謙遜さを、失うことがないようにしたいものである。
③いつも同行してくださる。
* クリスチャンとして生きる。それを主が助けてくださる。これが証しとなり、人々の心を主に引き寄せる。こうして主もともに働いてくださり、教会の使命は前進していく。教会には、過去の人であるはずのキリストがおられる。これが私たちの証しである。

<結論>主は今、確かに生きておられ、地上を歩いておられる。信仰を持つ私たちはそれを確認することができる。しかし、世の人々は私たちを通してでなければそれを見ることができない。これが私たちの証しの重要となるゆえんである。(A.S.S.)

4月25日の礼拝説教要旨

  『エリヤとカラス』 (Ⅰ列王記17:1~8)  2004、04、25(春の野外礼拝メッセージ)→とともに川のそばで、神のみことばを待ち望む信仰の訓練を受けることができたら、すばらしい礼拝となることと思う。
Ⅰ 神のことばがあった。
①アハブに対する奉仕の開始。
* アハブはイスラエルに偶像を持ち込んだ。突然エリヤが現れた。彼は王の前に出て「雨が降らない」と宣言した。ヤコブ5:17には、エリヤの祈りがこれを実現させたと記されている。エリヤはこうでもしないと、アハブ王は悟らないと思ったのであろう。
②旱魃の到来。
* エリヤの祈りが聞き届けられると、エリヤ自身も日照りにあい、アハブの追跡を受けることになる。現実は決して生易しいものではない。こうした時、エリヤはいつも神を信じ仰いで、みことばを待った。神はエリヤにケリテ川に行くようにと語られた。
③ケリテ川へ。
* ケリテ川はヨルダン川の東にある。そこはエリヤの出身地に近かった。水もあるし、王からも身を隠せるところであった。神に仕え奉仕をしようとしたが、孤独が彼を襲ってきた。今はただ、みことばだけが頼りであった。彼は何もかも失ってしまった。
Ⅱ 烏が食べ物を運んできた。
①烏が運ぶパンと肉。
* ケリテ川につくと、朝と夕、烏が飛んできてパンと肉を置いていった。「神の国と義とを第一に求めなさい。そうすれば、これらはみな加えらる。」(マタイ6:33)エリヤの生涯は、生活のことは神にお任せであった。それに答えて神はエリヤのいのちを支えられた。
②単調な待つ時間。
* エリヤの性格は行動的であった。しかし、今はじっとしていなければならなかった。神には時がある。これは聖書の重要な教えである。待つことができなければ、神の奉仕をすることは不可能である。歴史の動きは、「その時」がいつでも鍵となる。
③続く旱魃。
* じりじりと照る太陽。旱魃はイスラエルへの神の懲罰であったが、エリヤもそれに耐えなければならなかった。川の水はだんだんと細っていった。エリヤに今度は生きていく上の心配がのしかかってきた。そして、ついに川が枯れるときが来た。
Ⅲ しかし川は枯れた。
①イスラエルが神に帰らない限り。
* 神の目標は、イスラエルがバアル神を捨てて、まことの神のみ許に帰ってくることであった。この旱魃を偶像では解決できない。イスラエルはこれを知るべきであった。このように、旱魃は神のイスラエルの不信仰に対するメッセージであった。
②ケリテ川が枯れた日。
* ついに、ケリテ川が枯れる日がきた。イスラエルも苦しんでいる。しかし彼らは不信仰の報いである。その苦難にエリヤもあずからなければならない。しかし、エリヤは神の御心がなることを願った。神はエリヤを助けてくださると信じてやまなかった。
③再び神は語られた。
* 人々が水と食を求めて野山を駆け巡っていたとき、エリヤは静かに、神のことばを待った。神が次の道を開いてくださるはずだ。これはエリヤの確信であった。ついに神は語られた。みことばがあれば生きていける。これがエリヤの信仰であった。
<結論>神のことばだけを頼りに生きて奉仕をしたエリヤの信仰を学ぶことができた。これを現代に適用することは決して容易ではない。信仰はそれを実践するためには訓練が必要である。エリヤの奉仕はそれを教えてくれたことと思う。(A.S.S.)

4月18日の礼拝説教要旨

  『日曜日の明け方のこと』 (マタイ28:1~10)  2004、04,18(イースター礼拝メッセージⅡ)→
* 「週のはじめの日」、それは日曜日のことである。また主が復活された日である。その主を最初に目撃したのは女性たちであった。この日曜日の朝、私たちも同席させてもらいたい。そしてその日のスリリングな光景に、私たちも身を置きたいと思う。
Ⅰ 日曜日の朝。
①愛があった。
* 主の十字架のもとには女性たちがいた(マタ27:55,56)。主が墓に葬られるとき、そこにいた(:61)。日曜日の朝、女性たちは急いで起き、墓へと走った。葬りの匂い油を塗るためであった。彼女たちはひたすらに主を愛して、このように行なった。
②奇跡があった。
* 墓に着くと女性たちは、地震と主の使いと石が退けられた墓を見た。彼女たちは墓石のことで心配していたが、それはなくなった。しかし、今度は御使いを見て恐れた。愛のあるところには、このように、神はご干渉される。これは奇跡であった。
③メッセージがあった。
* 続いて女たちには御使いから二つのメッセージ、復活の主ご自身から、ひとつの力強いメッセージがあった。神は語っておられる。山々をこだまして語っておられる。しかし、愛のある者だけが、その声にチャンネルを合わせ、聞き取るのである。
Ⅱ 三つのメッセージ。
①「恐れてはいけません」
* 女性たちは御使いを見て恐れたのだろうか。それとも、これから起こることを考えて恐れたのであろうか。確かに人生は恐れに満ちている。だからこそ、人生の確かな土台として復活の主を仰ぐ必要がある。主は語られる「恐れてはいけません」と。
②「知らせなさい」
* キリストの復活を知った者は、その驚くべき恵みを知らせないではいられない。まず、弟子たちに知らせるべきであった。この第一報が世界を揺り動かす始まりとなった。主の甦りを知った弟子たちは、それこそ、殉教の精神で宣教したのである。
③「お早う」
* この挨拶のギリシャ語は「カイラテ」で、「喜べ」の意味がある。主のよみがえりは、主の贖いのみわざを完成させるためのものであった。もはや私たちは罪に悩むことはない。死を恐れることもない。それらは救い主によって拭い去られたからである。
Ⅲ 復活に生きる信仰。
①信仰に生きる。

* 主は甦られた。この信仰に揺らぐことがあってはならない。弟子たちの証しは真実である。彼らは命がけで証しした。聖書の証言も確かである。信じた人々の実験がある。この信仰にかける。今日、私たちがしなければならないのはこれである。
②証人として生きる。
* クリスチャン生涯で、もし一人、あなたの証しで信じる人が与えられたら、確かに証人として生きたことになる。それなら家族を、本気になって家族の一人が信仰に導かれるために生きよう。証しだけが復活の主をこの世に明らかにすることになる。
③喜びに生きる。
* 復活の主を信じるとは、花婿を待つ花嫁のようである。泣いてはいけない。悲しんでもいけない。力の限り喜びの声を上げるべきだ。もし辛いことがあったら、復活の主を見上げよう。私たちの生活が喜びに満ちていることが、主の喜びだから。
<結論>イースターは昔の思い出の中にあるのではない。本当に信じるなら、私たちも、復活の主の臨在の中に生きることになる。私たちの主への愛が現実となる。奇跡が現実となる。何よりも日々に、メッセージとして主の声を聞くことになる。(A.S.S.)

4月11日の礼拝説教要旨

  『十字架、埋葬、復活』 (マタイ27:57~66)2004、04、11(イースター礼拝メッセージ)→、7:50)。
* ヨハネの福音書によれば、ヨセフはそれまで隠れた弟子のひとりであった。ニコデモが議会でイエスの逮捕に反対したとき、ともに立ったと思われる。勇気のない弟子でも、ある日あるとき突然強められ、キリストのために立ち上がるときがある。
②ピラトのもとへ。
* 彼はピラトのもとへ行って、御体の下げ渡しを願い出た。でなかったら、ほかの犯罪者のようにその死体は野ざらしとなり、野犬の餌となるところであった。伝説によれば、彼はイエスの母マリヤの叔父にあたり、親族の役を果たしたと思われている。
③用意された新しい墓(イザヤ53:9)。
* ヨセフは富める人であり墓を用意してあった。それは横穴式で正式なものであった。そこにイエスを葬ることは、丁度イザヤの預言を成就することとなる。こうしてすべての準備が整えられた。一つ一つが神の奇しい摂理を思わせられる出来事である。
Ⅱ 狼狽したユダヤの指導者たち。
①耳に残った気になることばがあった。
* 主のよみがえりのことは、弟子たちは忘れたかのようであったが、敵は覚えていた。彼らはそれをどうして知ったのであろうか。16:21からみれば、「三日目」について知っていたのは弟子たちだけであったが、何かのことで彼らも知っていた。
②弟子たちが死体を盗むと考えた。
* もし、弟子たちが死体の盗み、墓を空にしたら、厄介なことになることは認識していた。それは避けなければならない。それで彼らはピラトのもとへ行き、対策を考えることにした。事実は弟子たちはそんな行動を起こす気力も勇気もなかった。
③墓を封じ込めようとした。
* 彼らが考えたことは、番兵を立てて、墓を封じ込めることであった。たとえ自力でキリストが復活しても、こうすることで、未然に防ぐことができる。これは神と人間との対決である。何と空しい戦いであろうか。神のわざを封じることは人にはできない。
Ⅲ 勝利の主の復活。 ①黄泉の底から(使徒2:27)。
* 主の霊は十字架ののち黄泉に降られた。人間でそこに行った者で、出てきたものは未だにいなかった。しかしキリストの霊をそこに封じ込めることは不可能であった。キリストの勝利はまずここから始まった。神の全能の力でそこから出てこられた。
②死人の中から(:64)。
* 内容は上に同じことであるが、この表現は地上から見た場合である。アダム以来の死者で、この世にもどった者はいない。生と死の中間から戻ったものはいるかも知れない。しかし主は死んで、死人の中に加わり、そこから出てこられたのである。
③墓石を打ち破って。
* 死人の中から戻ってきて目覚めて墓の中だとしたら、今度は墓石がある。番兵が見張っている。しかし主はそこを、普通のドアを通り抜けるようにして出てこられた。「実に主は死人の中から甦られた。」神が実行されることを、誰も封じられない。
<結論>死人の中から甦られた方は、キリスト以外にはいない。しかしこのドラマは、主だけでは終わらない。私たちも終わりの時、甦りの日に甦る。イースターが素晴らしいのはこのためである。イースターおめでとう。心から叫ぼうではないか。(A.S.S.)

4月4日の礼拝説教要旨

  『主の御名によって来られる方』 (マタイ21:1~11) 2004、04、04(棕櫚の聖日礼拝メッセージ)→の第一日目である。木曜日弟子たちと過越しの最後の食事をされ、 夜半にゲッセマネで祈られ、逮捕され、朝方まで二度の裁判を受けられ、十字架を背負って行かれ、金曜日朝9時十字架にかかられた。次週はイースターである。
Ⅰ 聖なる一週間。
①主のためにろばが用意され。
* 福音書の主イエスは、弟子たちや群衆に命じておられるが、何か用事を命じられたのはここが初めてである。ここでは主は王として、弟子たちを家臣として振舞っておられる。今からろばの子が必要であったが、その用意を弟子に命じられた。
②イエスはろばの子に乗り。
* 王が都に入るときは普通軍馬に乗って行進した。にもかかわらず、ろばに乗って入城された。ろばは柔和と平和の象徴とされていたが、 決して戦いのためでなく、むしろ人々の贖いとして、ご自分のいのちを提供されるために、ろばで入城された。
③群集は歓迎した。
* これを見た群集は熱狂的に歓迎した。彼らはメシヤを歓迎するときのための、詩篇の一節を唱えながら歓迎した。この方が私たちをローマの圧制から救って下さる。私たちはこの方を王として歓迎しよう。この方はきっとそのために来られたのだ。
Ⅱ 預言の成就
①主は預言を意識しておられた。
* エルサレムに入城するためにろばの子に乗られたが、主はこのときゼカリヤの預言を意識しておられたと考えられる。預言者がロバに乗ってと指定しているなら、そのとおりにする。すべては預言のためであった。メシヤはろばに乗るべきであった。
②群衆の行動は突発的であった。
* しかし、預言は群集がそれを歓迎して初めて成就する。これを考えると主の行動は一つのかけであった。群集は何の用意もなく、ろばの子に乗られる主を見たのである。すると彼らは、自分たちの上着を敷いたりして主を王として歓迎した。
③ゼカリヤの預言は成就した。
* マタイはこれをゼカリヤの預言の成就であると伝えている。群集の動機がどうであれ、主の入城は平和の王としてであった。このすれ違いは、今も神と人間との間に起こっている。主は私たちの魂の救いのために、ただこのために行動された。
Ⅲ イエスを取り巻く人々。
①主に仕える人々。
* 「主がお入用なのです。」美しいことばである。ろばを用意したのは誰なのか。その人の名は今も分からない。ただ天に記録されているだけである。しかし、彼が主のために奉仕したということは永遠に残る出来事である。真に美しい出来事である。
②主に期待する人々。
* 群集が棕櫚の葉を振ったのは、この方こそ、自分たちの願いをかなえてくださると思ったからである。苦しい重圧の中で彼らはメシヤ信仰に燃えていた。しかしやがて主が十字架に向かっているのを見て、失望に陥った人々であった。
③主を探究する人々。
* 何人かの人は、「この方は、どういう方か」と言った。この探究が実を結ぶためには、自分の思いを尺度とせず、神のご計画を真剣に追求することによって、可能である。人はいろいろな願いを持つ。しかし御心と出会ったとき、それを追求するように。
<結論>受難週は、救いは神がご計画されたことであると教える。信仰が自分の考えが中心となっていれば、実を結ばないことがある。預言に照らし、主の思いに照らし、主は何をなしてくださったかを、真実に考える受難週でありたい。(A.S.S.)

3月28日の礼拝説教要旨

  『信 仰 の 戦 い』(ユダの手紙:1~4)  2004、03,28(年会報告礼拝メッセージ)→で取り上げられえたものと同じである。今年会の課題は私たちにも関係があったので、さらに取り上げることにした。こんな形で教会が異なる教えに遭遇したのは初めてのことである。このことをさらに吟味したい。
Ⅰ ユダは何を言おうとしたか。
①手紙を書こうとした動機(:3)。
* ユダ(主の兄弟)ははじめ、信仰の遺産としての「救い」について書くことにしていたが、急遽それを変更せざる終えない事情が出てきた。これは恐らく諸教会から次々に寄せられる報告を聞いて、それに対する回答を書く必要に迫られたのであろう。
②信仰の戦い。
* 「信仰のための戦い」について書くことは、ユダにとっても不本意であったと思う。マイナス的なことは最小限度にしたいものである。にもかかわらず、この題目は現代の教会にも重要なことであり、神が摂理的にこれを書くよう導かれたのであろう。
③間違った教えの害悪。
* 福音は与えられたとおりに信じるとき力を発揮する。異端はその福音を変質することで教会に甚大な被害をおよぼす。初代教会はグノーシスという異端に悩まされてきた。これらは信仰の土台を揺さぶるもので、福音を骨抜きにするものであった。
Ⅱ 私たちの群れに何があったか。
①東名古屋教会に起こったこと。
* 悩める姉妹のところに一人の訪問者が来た。彼はそこで家庭集会を始めるようになり、異なった教えが教会に入り込んできた。牧師もその教えにとらわれ、昨年、教会を辞して韓国へ行くことになった。その後任として松井牧師一家が赴任した。
②教会の閉鎖。
* 赴任当初から、雰囲気から異常さを感じていたが、それが異端によるものであることが発覚したのは今年に入ってからであった。何度か修復を試みたが、福音とは似て非なるものに感染した人の心を変えることは、困難でひとまず閉鎖となった。
③なぜこんなことが。
* クリスチャンの心に神以外のものに心を寄せる思いが少しでも残っていると、そこに、蛇のように不純の思いを注入するためにくるのが異端である。末の世ではこうした教えがますます蔓延ってくる。私たちは早い段階でこれを知ることができた。
Ⅲ 私たちへのメッセージは何か。
①求める心を研ぎ澄ます。
* クリスチャンは必要をすべて神に要求する。この世は満たされた心を持って奉仕する場であっても、クリスチャンが何かを期待する場ではない。まず神の国と義とを求めるなら、必要をすべて与えられる。この原理で生きることを学ぶべきである。
②どこまでも神を信頼する。
* 神への信頼の心が弱まれば、この世はだんだん魅力的となる。ここに心の隙が起きてくる。蛇の子孫は現代も活躍していて、この世の魅力を武器に、クリスチャンの心を揺さぶりにやってくる。どんなことがあっても神への信頼を第一とすること。
③へりくだりの心を持つ。
* 福音は不変の真理である。これをそのまま受け入れるだけの謙虚さをもつこと。たしかに福音には現実との間にかなりの格差がある。戸惑いもある。これを如何に信仰によってのり越えることができるか。これが私たちに課せられた課題である。
<結論>神は私たちの信仰を研ぎ澄まそうとしておられる。ですから、神のみを見つめている者にとっては、神の声か他のほうからの声かを見分けることはそう難しいことではない。さらに主への思いを確かにして、信仰の道を進んで行こう。(A.S.S.)

3月21日の礼拝説教要旨

 3月21日(日)は、青山学院講堂での「合同礼拝」であったため、記載はありません。

3月14日の礼拝説教要旨

  『聖 餐 へ の 招 き』(マルコ14:17~25)  2004、03、14(年会送別礼拝メッセージ)→を守ることは恒例となっている。年会には全国から牧師たちが集まってくる。愛兄姉もそのことを覚え、留守となる教会のために、祈りつつ、聖餐に臨んでいただきたい。
Ⅰ 聖餐への招き。
①年会を前にして。
* それではなぜ年会なのか。ほんの数日のことであるが、牧者はこの教会を離れる。これを象徴的に捉え、私たちの信仰が主に直接つながったものであるように。聖餐に与ることによって、そうした信仰を愛兄姉一人一人が確認していただきたい。
②主の弟子たち。
* 17節に、「十二弟子といっしょに」とある。これから主は最後の食事を取ろうとするとき、弟子たちだけといっしょになさろうとされた。弟子たちはすでに信仰を告白している。バプテスマも受けている。信仰によるひとつの家族として食事を取られた。
③ユダの退場。
* あきらかに、ユダがそこにいることはふさわしくなかった。彼の心はすでに主から離れていた。主はユダに悔い改めを促すこと、もし悔い改めを拒むなら、席をはずすようにされた。これは聖餐が弟子たちだけのものであることを意味している。
Ⅱ 取りなさい。
①パンを取る。
* 主はパンを裂いて弟子たちに与えられた。そして言われた。「これはわたしのからだです。」こうして、パンは十字架の上で裂かれたキリストご自身のからだを記念するものとなった。それを食するとき、私はキリストと一体であることを記念する。
②杯をとる。
* 主はぶどうの液の入った杯も同じようにされた。その赤い色は、十字架の上で流された主の血をあらわした。主は私たちの罪のために、ご自身の血を流された。聖餐の杯が回ってきた時、十字架を見上げ、その血が私の贖いであることを記念する。
③こうして主を記念する。
* 聖餐は主の十字架を思い起こさせる。パンを取り杯を取るとき、その物質は手とのどに感触を与え、赤い液はキリストの血を思わせる。その感覚を信仰によって霊的な領域にまで高める。こうした私たちはいつでもキリストを思い出すことができる。
Ⅲ 契約の血。
①十字架の上で流された血。
* 主は十字架の上で、手と足の釘の傷から、頭の茨の傷から、脇の槍の刺し痕から大量の血を流され、地に注がれた。キリストの死は出血多量よることはあきらかである。こうして主は多くの血を流された。全人類を罪の呪いから贖いだすためであった。
②私が贖われた根拠。
* 私が贖われた根拠は、私の経験でもなければ、私の魂の平安や喜びでもないし、まして理性でもない。キリストが流してくださった十字架の血にある。ひとたび疑いがきたとしても、その中から十字架を見上げるなら、そこに私の贖いの事実がある。
③信仰に立つ。
* たとえ感情がついて来なくても、疑いが襲っても、それで救いの事実がなくなることはない。十字架を見上げて信仰を奮い起こすなら、私が主の贖いのみわざによって救われたという事実は、そこにあることがわかる。信仰に立つことが大切である。
<結論>*信仰生活には山坂がある。感情に根拠を置いていると、救いの確信もあったりなくなったりする。聖餐は、私たちの救いの事実は、そんな不安定なものでなく、キリストの十字架の事実にあることを思い起こさせてくれるものでもある。(A.S.S.)

3月07日の礼拝説教要旨

  『イエスの十字架の意味』(使徒の働き2:22,23)2004、03、07(第一聖日伝道礼拝メッセージ)→をテーマとする。十字架の恵みは信じて受け入れる者には豊かである。しかし私たちは理解も必要としている。理解によってよりいっそう信仰が深まることもある。今年はこの作業を進めたいと思う。
Ⅰ ナザレ人イエス
①完全な人
* 福音書がイエスについての正確な情報を伝えているという前提に立つなら、この方の生涯は、歴史上比類のない驚くべきものである。一個の人間と見ても、その高潔さを窺がい知ることができる。この方はまさに神の御子というべきお方である。
②罪のないお方。
* 「正しい」とは,心に混じりけのない純潔を意味する。ヨハ8:29,46、マタ3:17、ヨハ12:28、Ⅰヨハ3:5、ルカ23:4、マタ27:4、マル1:24。以上の聖句はイエスの罪無き方を証言している。こうしたことは、歴史上唯一の事例であり、他に類を見ない。
③不合理な死。
* もしこのような方なら、なぜ裁判で有罪として処刑されなければならなかったのか。それ以上に死は罪の報酬といわれているのに、その必要のない方に死が来たのか。まことに不合理な死である。イエスの十字架の死は多くの問題を提起している。
Ⅱ ユダヤ人たち。
①不法な裁判によって。
* ユダヤ人たちはイエスについて、二つの裁判を行っている。まず自分たちの法廷でさばき、次にローマの法廷に訴えているが、この二つは一貫していない。彼らは意図的に事実を隠し、強引にイエスを有罪とし処刑しようとしている。
②不法な人によって。
* 「不法な者lとは、律法を理解するはずのない外国人、ローマ人の手によってイエスを十字架につけたことを言っている。これは「はじめに十字架ありき」で、その目的を達しようとしたからである。彼らにとっては神の御心はどうでもよかったのである。
③イエスを十字架に。
* 彼らの行為は、罪深い人間が罪のない方を裁き、処刑したことを意味する。低いレベルでは歴史上こうしたことは何度も行われてきた。そしてこのような事例は、病める社会、人間の心の闇を実証してきた。イエスの十字架はまさにそうであった。
Ⅲ 十字架の意味。
①死は罪の刑罰。
* これをさらに聖書の光に照らして考察しよう。聖書的には死は「罪の刑罰」である。聖書の総合的な研究によれば、死は人の霊が神の霊から隔離されたことを意味する。罪を犯した者が肉体で生きていたとしても、実質は死んだ者である。
②イエスは死に相当しない。
* この光に照らせば、イエスは死ぬべきお方ではない。むしろ彼は「人のいのち」として世に来られた。多くの人を生かすために神から遣わされた。ユダヤ人たちが神から来るメシヤが、十字架にかかることは、不合理と考えたことは順当である。
③神のご計画によって。
* にもかかわらずイエスは十字架上で死なれた。実はここに人間の理性では思いもつかないご計画が隠されていた。神は正しい者の死を通して、人類の罪からの救いを実現しようとされたのである。神の救いはこのようにして現われたのである。
<結論>*私たちがどんな罪深い者であっても、神はそれをお赦しになる。神はそのようにて十字架を示された。人の罪も不合理なら、イエスの十字架も不合理であった。神はこの不合理を通してご自身の愛をあらわしてくださったのである。(A.S.S.)

2月29日の礼拝説教要旨

  『懲らしめののちに』(イザヤ書26:15~21)2004、02、29(第五聖日奨励礼拝メッセージ)→
* イザヤ書は第五の聖日礼拝説教でのみ取り上げてきたので、大変息の長い学びとなっている。どの時代にも歴史には政治情勢、社会情勢、人間の心が反映されている。そうした意味ではイザヤの時代も現代も同じである。だからこそ、現在へのメッセージがある。
Ⅰ イスラエルの失敗(:15~18)。
①イスラエルへの神の祝福。
* エジプトでの奴隷の民が、神の力強い御手によって、カナンに導かれ、ダビデ時代に広大な王国を築いた。この歴史的事実は長くイスラエルの誇りとなり、彼らが描く祝福の原点となった。夢よもう一度と、彼らの信仰を奮い立たせる要因ともなった。
②イスラエルへの神の懲らしめ。
* しかし、厳しい現実の中で彼らの信仰が試された時、堅く神に信頼し続けるよりも、安易な偶像教へと流れた。神は預言者を送り、不信仰の危険を警告したが、揺れ動く信仰を確立することはできず、腐敗もはびこって、ついに捕囚の憂き目となった。
③イスラエルのへりくだり。
* 国土を失うという民族の最大の危機の時に、民族は諸国の中に融けて消滅するどころか、かえって霊的に目覚め、捕囚という歴史の意味を見つめ、神への信仰を新たにした。このことは神の勝利となった。残ったのは征服民ではなく神の民であった。
Ⅱ 救いの実現(:19)。
①死者の復活。
* 19節は、旧約において数少ない死者の復活への言及である。あとダニエル12:2にある。彼らは民族の繁栄を通して神の祝福を確認してきた。死者の復活という霊的な問題はあまり考えなかった。しかし、救いはここまで来て本物であるといえる。
②神の救いのご計画。
* 神ははじめから全人類の霊的救いをご計画しておられた。まず奴隷の民を救い、神を信じるなら繁栄し、不信仰によって民族は捕囚という憂き目に会った。しかし霊的な救いの真理を悟るのに千年が経過した。彼らは神のご計画の深さを知った。
③信仰の目覚め。
* 預言者の警告にもかかわらず、なぜ不信仰はいやされなかったのか。根は人の心にあった。ここから真実に神を求める人々の間に、霊的な救い主としてのメシヤ信仰が芽生えてきた。それは若葉のように新しい核となって、民族は甦った。
Ⅲ 神の義を知る(:20、21)。
①神の憤りの日。
* 終わりの日に、神の義を明らかにされるときが来る。それが「憤りの日」である。世界には神の審判でしか神の義を知ろうとしない人々がいる。魂の問題を後回しにして、向上をはかろうとするのは誤りである。しかしそれは、さばきによってはじめて、自分は神の怒りのもとにあることを知らされる。
②さばきから身を隠す。
* 信仰によって神の義を認めるなら、罪の世界に審判が下されることを認めなければならない。神はこうした者たちのために隠れ家を用意しておられる。十字架の血潮だけが神の憤りから身を隠すための、私たちに与えられた隠れ家である。
③出エジプトの時のように。
* 出エジプトの時、民はエジプト中を死の御使いが走るのを経験した。小羊の血によってその怒りを逃れることができた。これが終わりの日にもう一度起こる。その時は罪への怒りであり、神の子羊であられるイエスの血によって、逃れられる。
<結論>*人生にはさまざまな苦難が大波小波のように襲ってくる。その脱出の道も備えられている。最後に死という大波、続いてさばきと言う大波を越えなければならない。これを越えさせてくださるのは、イエス様の血潮への信仰だけである。(A.S.S.)

2月22日の礼拝説教要旨

  『私にならう者に』(Ⅰコリント4:9~16) 2004、02、22(コリント人への手紙・講解№16)→
* パウロの公式文書からは滅多に見えない断腸の思いが、コリントの手紙にはある。15節には「父」とあるが、ここはまさに「父の心」で訴えている所である。父が「言うことを聞け」ではなく、「私にならう者となれ」と言っているのが、今朝の箇所である。
Ⅰ コリント人と使徒たち。
①王さま気取りのコリント人。
* 8節は彼らが祝福されたクリスチャンであったことを示している。ところがその祝福が困ったことに彼らを高慢にした。王さま気取りにしてしまった。見える形の祝福がクリスチャンの祝福であるなら、彼らは使徒たち以上になってしまったことになる。
②世の見せ物となった使徒たち。
* パウロたちはと言えば、日々に苦労し、クリスチャンたちの支援で生活と働きを助けられ、殉教を覚悟した伝道を行っている。それは見栄えも魅力もなく、ほとんどのクリスチャンは、パウロのように神の働きにつこうとも思わない。むしろ敬遠される。
③この対比は何を意味するか。
* パウロは神の祝福を受け、それを誇っているコリントの人々にこの対比を突きつけた。見える形の祝福も祝福には違いない。そこで終わりなら、キリストのための苦しみは意味のないものとなってしまう。ところが主は十字架を負うよう召しておられる。
Ⅱ 十字架を負う者。
①主の力による奇跡。
* 主の奉仕の深いところを記録したものに、主から「力が外に出て行った」(マル5:30)とある。いやしの奇跡というプラスの裏に、主の内面でマイナスが働いた。神のみわざは必ずプラスマイナスの差し引きで行われる。犠牲の上にみわざは築かれる。
②苦しみへの召命。
* パウロの召命には、「主のための苦しみ」(使徒9:16)が含まれていた。地上で祝福されて幸福に暮らすことはなかった。それはヤベツの祝福(Ⅰ歴4:10)とは別であった。主の奉仕とは、多くの人に祝福を施すために犠牲を引き受けるものである。
③十字架を負って従え。
* 十字架はのろいを意味したが、主によって刺は抜かれてある。それを引き受けるには確かに恐ろしい。パウロは「私はそれを引き受けた」といっている。そしてコリントの人々に、神の恵みが分かったら、次は私とともに次に進んでくれと言っている。
Ⅲ 「私にならう者」。
①キリスト(ピリ3:8)。
* パウロにならう者となるためには、それなりの価値観、動機が必要である。使徒はそれを「キリスト」という。キリストを得ることが人生で唯一の目標と分かれば、その他はすべてを捨てることができる。その時、どんな苦しみも苦しみでなくなる。
②教会(コロ1:25)。
* 私たちはこの地上で大事なものは多くある。守りたいものもある。しかし、パウロは「教会のためにはいのちさえも惜しまない」といった。使徒にとって教会は主から委託されたものであった。この価値観をコリントの人々にともにするよう願った。
③福音のあかし(使20:24)。
* パウロは使徒だから、福音宣教のために一生懸命になるのは分かる。彼の使命だから。しかし、それをコリントの一般のクリスチャンにも要請した。「私にならう者」になって欲しいと。パウロはすべてのクリスチャンにそうなってほしいと願った。
<結論>*パウロにならう道は、信仰生涯の奥座敷のようである。パウロはそこに、光り輝くキリストの栄光を見ていたからこそ、コリントの人々にも、また私たちすべてのクリスチャンにも勧めている。パウロを通して見えるキリストに私たちも従おう。(A.S.S.)

2月15日の礼拝説教要旨

  『脱 出 の 道』(詩篇107篇)2004、02、15(第三聖日聖別礼拝メッセージ)→である。魂の眼が神に向いているか、この世に向いているか。第三は非常に大切な聖日であることを心に留めていただきたい。
Ⅰ 「苦しみのとき」(:6,13,19,28)。
①詩篇107篇。
* この詩篇は礼拝での交読文の形式をとっている。神による贖い、神による救出を経験した者は、証しをするようにと呼びかけられている。それに応えて四人の人々が立って、次々と証しをしている。状況はみな違う、しかし、救いはただ一つである。
②集会での四つの証。
* 第一は旅路、または航海で迷った人々である。第二は神に逆らい苦難を受けた人々である。第三は自分の魂に問題を持った人々である。第四は取り立てて問題児であったと言うわけではない。人生そのものに苦難の種が散在している。
③さまざまな苦難。
* 以上はほんの一例であろう。さまざまな苦難があり、生きていることが問題の波をかぶることになる。自分の苦難を刈り取るようになる人、善良に生きていながら、突然苦難に襲われる人、さまざまである。まさにここには人生のさまざまな縮図がある。
Ⅱ 窮地からの脱出。
①迷い出た人々。
* 人生には危険が潜んでいるが、無防備、無思慮のために苦難を招く人々がいる。もう少し賢明であれば避けることができたであろう苦難と言うものがある。彼らに大波が襲ってきた。その時主に叫ぶと、主はたちまちに来て、彼らを救出された。
②罪に悩む人々。
* 第二は「神のことばに逆らった」彼らは教会の中にいたであろう。神のことばを聞いていながら、それはそれ、この世はもっと知恵深く生きるべきと考えていた。ところがにっちもさっちも行かなくなった。その時でも主は叫びに聞いてくださった。
③自分に問題を抱えた人々。
* 第三は宗教を軽視ていた人々である。神を否定していた人々である。こうした生き方は問題を抱えることになる。彼らの危険は苦しみの中でなお心を頑なにすることである。しかし彼らは主に叫んだ、それでも神は彼らの祈りを聞き、助けられた。
Ⅲ 人生の苦難からの脱出。
①人生に潜む危険。
* 23節からは、彼ら自身に問題を引き込む原因は見当たらない。そうしたときでも人生には危険が満ちている。善良に生きているから、信仰に熱心だから大丈夫とはいえない。ヨブのような苦難もある。その時は率直に神に求め助けを得るべきである。
②唯一の助けの道。
* トラブルの種類は千差万別である。身に覚えのある苦しみ、不当な苦しみ、何故と問わねばならないもの、肉体的精神的経済的と、分類はできるであろうが、一つとして同じものはない。しかし、問題の解決の道は唯一つ、神からの助けのみである。
③神に向っての叫び。
* 「主に向って叫ぶと」、このことばがキーワードとして何度も出てくる。これしかないというように、同じことばが繰り返されている。それならばもっと早く叫ぶべきである。問題があろうがなかろうが、神は私たちが神に心を向けることを願っておられる。

<結論>*脱出の道は唯一つである。あれこれと試してみてやっと神に祈ると言うのでなく、「苦難の日にはわたしを呼べ」と言われる主に、即座に求める。私たちの日ごとの祈りは、こうしたときに発揮される。どんな時にも主に呼び求めよう。(A.S.S.)

□2004年 新年のご挨拶をご覧ください。→

2月8日の礼拝説教要旨

  『高慢にならないため』(Ⅰコリント4:6~8)2004、02、08(コリント人への手紙講解・№15)→について。
* この手紙はまことに厄介な手紙である。コリント教会の現実がそこにある。それは説教者がわくわくするような題目でない。ひょっとすると、躓きを与えるかも知れない。それでも、この手紙を取り上げるようになったのは神の摂理というほかない。
③前回の講解。
* 前回№14は昨年の10月12日に行われた「神の奥義の管理者」である。ここでパウロは自分とアポロのことを語った。信者と伝道者、この両者は神の御前に立った時、そこには区別はない。同じ基準で裁かれ、神からの報いを受けることになる。
Ⅱ 高慢の本質。
①自分を基準とする(:6)。
* 彼らは自分を基準として人を批判したり裁いたりしていた。パウロはここで「書かれたこと」という。これは聖書のことである。「聖書の教えに戻る」これはクリスチャンが常に心がけなければならないことである。ここに私たちの行動の基準がある。
②自分の能力に頼る(:7)。
* パウロは次に「貰ったもの」と言うことに彼らの注意を向けている。流れのほとりの木が、水分なしに大木となったと考えるなら愚かなことである。私たちは条件の存在であることを忘れてはならない。自分ひとりで自分はあると思うところに高慢がある。
③自己満足に陥る(:8)。
* 「満ちたり」「豊かに」は自己満足をあらわしている(黙3:17)。コリントの人々は王さま気取りになっていた。パウロは思いっきりの皮肉を込めて彼らの自己満足をいさめている。人々の助け合いがあって神に助けられての自分を失ってはならない。
Ⅲ 高慢にならないために。
①毎日聖書を読む。
* もし毎日の聖書を読むことを怠ったら、知らず知らずのうちに私たちは自分を基準として考えるようになる。それは海図なしに航海に出る船のようなもので、人生の終わりに来た時、自分は迷いに迷ってここまで歩んできたことを知らさせることになる。
②祈りの中で神に探っていただく。
* 詩篇139篇の祈りは重要である。鏡なしでは自分で自分の顔を見ることはできない。人の心の奥深くを、自分でも見たこともない部分を神の御霊は分け入って調べてくださる。このように、人は謙遜にならなければ、本当の自分を知ることはできない。
③神の恵みを求め続ける。
* 自分の本当の姿を知った者は、真剣になって神を求める。自分も人も環境も見てはならない。見れば惨めになり不満が出るだけである。神に目を留めよ。そこには豊かな倉がある。私の人生を満たして余りある恵みが満ちている。
<結論>*高慢は人間性に根深く巣を作っていることを知るべきである。日々神とともに生きる。これ以外に、私を滅びに導く高慢からの解放はない。神の恵みは私たちのそばを大河となって流れていることを知って、そこに住み着くべきである。(A.S.S.)

2月1日の礼拝説教要旨

  『いのち・この高価なもの』(マタイ16:26)2004、02、01(第一聖日伝道礼拝メッセージ)→であるから、時々ここに帰って来て、自分の信仰を吟味することも必要なことである。
Ⅰ いのちの価値
①人のさまざまな生き方。
* 人は誕生によって一生が与えられる。人に迷惑をかけなければ、生き方は人さまざまである。と言うのが一般的な前提である。一体どう生きることが価値ある生き方なのか。与えられた人生を、私たちは神の導きによって最高に生きたいものである。
②Boys be ambitious to God。
* これは有名なW・S・クラークの言葉であるが、大方は最後の to God が脱落している。大切なのは最後の2句である。志をもたなければ、人生を生かすことができない。お金でも捨てるような使い方がある。志によって、価値を高めることができる。
③全世界よりも高価。
* 「全世界を手に入れても」と言う主のことばは厳粛である。そんなことに費やすのはもったいない、という響きがある。「いのちは地球よりも重い」と言う言葉はここから来ている。いのちは大切だ、と言う以上に、価値あることに用いよ、との意味である。
Ⅱ いのちの損失。
①まことのいのち。
* 25節と26節を比べると、「いのち」と「まことのいのち」は別物であることが分かる。今私たちが生きている人生はいのちである。このいのちで、世界を手に入れるのか、まことのいのちを手に入れるのかが問われている。これは永遠のいのちである。
②何のためのいのちか。
* 人生に志がなければ、ただ流れてしまう、ということは一般的にも理解されている。特に教育の場ではしつこく教えられている。では何のために生きるのかとなると、わからない。人それぞれに生きている。主はだから「損じたら」と言われたのである。
③後悔先に立たず。
* 人生はクーポンのようなものである。人は何とか質の良い人生を得ようとして、学歴やスキルを身につけようとする。今度はまことのいのちを獲得するために、そのクーポンを用いなければならない。でないと生涯の終わりに、後悔することになる。
Ⅲ いのちの買戻し。
①人生の失敗に早く気づくこと。
* 今の生き方で、確実にまことのいのちに到達するとの確信がないなら、未信者でもクリスチャンでも、それは失敗の人生である。遊んでばかりいる受験生が、こんなことをしている場合ではないことに、気づかねばならないのと同じことである。
②自分で買い戻すことが出来ないことを知ること。
* 受験生の場合は奮起すれば可能性があるかもしれない。人の場合は、気づいても自分ではどうしようもない。人間はもう破産状態である。今から品行方正を決めても、それを買ってもらえる見込みはない。ただ「憐れんでください」と言うのみである。
③主イエス・キリストに買い戻していただくこと。
* 人のいのちは全世界よりも尊い。だからこそ主キリストは、ご自分のいのちの代価によって、私たちを買い取ってくださった。悔い改めとは自分の破産状態を認めて神に憐れみを乞うことであり、信仰は、神の恵みを手を出して受け取ることである。
<結論>*今のいのちをクーポンとして使って、まことのいのちを手に入れる。これが人生である。神のほうはすべて買い戻しの準備はしてくださった。主に私のいのちを買い戻していただくこと。これが人生で最も大切なことである。(A.S.S.)

1月25日の礼拝説教要旨

  『主を心にお迎えして』(黙示録3:14~22)2004、01、25(教会総会礼拝メッセージ)→を迎える。3回、黙示録3章から学んで来たが、現代の時代に相応しいメッセージであった。今は末の時代であることを、意識することは重要なことである。主は戸口まで来ておられることを心してさらに前進したいと思う(黙示録1:3)。
Ⅰ 終末の教会の霊的状況。
①生ぬるい信仰。
* 生ぬるいとは、一方に湯があって他方に水がある状態を言う。今は心を失った時代である。その反面、組織に情熱を注いでいる。この風潮が教会の中にも入り込んでいる。国の行方、会社の行方、教団の行方、教会の拡大、これが重要となっている。
②霊的傲慢。
* すなわち、内面よりも外面が重視されている。経済的に豊かである。有能な人材が豊富である。組織が確立している。これが信仰であり、これが奉仕であり、これが教会を発展させる動力である。これこそが霊的傲慢と言われるものである。
③戸の外の主イエス。
* 人間が外面を誇っている間に、実は主は戸の外に放置されている。「金銀はない」と言う所から教会は出発したのに、現代の教会は、お金やテクニックなど、世の力に頼ろうとしている。このため、主を必要とすることなく、教会の外に退いておられる。
Ⅱ 終末の宗教事情。
①世界的な不信仰。
* 昔はキリスト教国と異教国があった。今はもうそれはなくなっている。この事情はイスラム世界でも同じである。国、社会、政治、教育、そこにはもう信仰は必要とされていない。霊的な社会の理想は、現代では心から消えて、過去の遺物となっている。
②霊に目ざめた人々。
* では、世界は完全に世俗化したか。そうではない。信仰の火は非常な勢いで燃えている。今は世俗化と霊的熱心が同居している時代である。この両極端が今の時代の特徴である。霊に燃えている人はますます霊に燃え神のために燃えている。
③信仰の個人化。
* 今までは教会は信仰の母であった。今では教会は信仰を保証する所ではなく、神に仕え人々に奉仕する場である。信仰は個人の責任と捉えられている。教会は主が召された重要な共同体であるが、主との関係はますます個人的となっている。
Ⅲ 主を迎えるために。
①戸を叩く音。
* 問われているのは主との関係である。組織化されたところでは主との関係なしでも、熱心でいられる。こうした時代だからこそ、主は心のうちにおられるのか、外におられるのかをはっきりさせる必要がある。主は心の戸を叩いておられないだろうか。
②心の戸を開く。
* ある説教者は心の戸は一つではないといっている。心の深いところに決して開かない戸を持っている人もいる。それがある限り、主は叩き続けられる。主が私の人生のすべてを保証されるという信仰に立って、初めてその最後の戸を開くことができる。
③主とともに生きる。
* 日ごとに主と語り合い、人生の計画と価値を共有し、主の心を私の心とし、私の手足は主の手足とし、この地上を主を生きるなら、あなたを通して主が今の時代を生きたことになる。その人の許に主を信じる人々が集まり、本当の教会が生まれる。
<結論>*信仰者は教会に加わっていればそれで良いのではない。主はますます個人に語られる。一人一人が主の前に立つクリスチャンの集まり、これが理想の教会である。「主よ私の心にお入りください。」これを今日の私たちの祈りとしよう。(A.S.S.)

  『主のために刷新しよう』(黙示録3:14~22)2004、01、18(教会総会準備講壇№ 2)→への手紙の学びを行っている。今朝のテーマは「刷新」である。遠洋航海から帰ってきた船は、船底にいっぱいカキをつけている。これを落とさなければ次の航海に出られない。刷新が必要である。
Ⅰ ラオデキヤの人々の生活態度。
①物質的繁栄
* ラオデキヤの信者は物質的には豊かであった。ある意味で、彼らはそれで慢心していたのかも知れない。ここに物質的繁栄の落とし穴がある。自分の霊的状態が見えにくくなる。自分はそれで十分と思い、それ以上に求めようとしなくなる。
②金銭本位の環境。
* もし生活するうえで、欠乏が起こったとしても、金を出せば解決する。この延長線上に、信仰、教会の働き、問題の解決は、お金さえ出せばと言う風潮になる。これが金銭本位の考え方で、こうなると教会の中にも差別をつくり問題を抱えることになる。
③霊的な鈍感さ。
* 物質やお金はこの世を生きて行く上で、しもべであっても主人となってはならない。これが信仰者の大原則である。従順なしもべではあるが、過酷な主人にもなることを忘れてはならない。これへの過度の依存は霊的鈍感さをもたらすからである。
Ⅱ 霊的貧困の状態。
①ラオデキヤの物産。
* 18節の主のことばには、ラオデキヤの産業と物産が反映されている。この町の近くには金鉱山があり、織物業が盛んで、そして温泉の成分によって作られる医薬品が産出された。この町は、こうした産業に支えられて物質的な繁栄を謳歌していた。
②霊的な貧困。
* こうしたものに心が奪われた霊的な鈍感さの必然の結果として、彼らは霊的な貧困に陥っていた。祈りによって信仰を働かせることができず、道徳的には敗北の生活をおくり、霊的洞察力はなく、神の御心は何も知らない状態であった。
③主に求めること。
* 彼らはいつでも必要なら金を出して買う。それなら、買えるものなら霊的に豊かになるものを求めて買え。勿論これはある意味で皮肉である。これは霊的なものをもっと貪欲に求めよと言う意味である。霊的食欲、霊的貪欲、これが彼らに求められた。
Ⅲ 刷新が必要。
①「金」による刷新。 * 振り返って私たちのことも考えよう。「金」とは富を意味する。聖書には霊的な富について多くのことが書かれている。まず「喜び」と「平安」に豊かになっていただきたい。これがあれば、少々のことは神経質にならずに笑って乗り越えることができる。
②「白い衣」による刷新。
* これを着ていれば、もっと大胆に遠慮しないで恥ずかしがらないで神さまの前に出て行って、まるで子どものように、求めておねだりもできる。力がほしい。誘惑に勝つ力、苦難に勝つ力、もっと人に奉仕できる力を与えていただきたいものである。
③「目薬」による刷新。
* 霊的な視力回復には「目薬」が必要である。なぜ私たちに聖書があるのか。神さまは知ってほしいと願っておられる。神様から来た手紙を棚の上においていてはならない。目薬をぬってでも御心を知るために、洞察力を与えていただこう。
<結論>*次のように祈ろう。「神さま。あなたの子どもにふさわしい自尊心を与えてください。白い着物を着て、神さまの前に大胆にでられる者にしてください。私の霊の目を開いてくださって、神さまの御心をもっともっと知る者にしてください。」(A.S.S.)

1月11日の礼拝説教要旨

  『主のために燃えよう』(黙示録3:14~22)2004、01、11(教会総会準備講壇№ 1)→
* 毎年、1月には教会総会が行われる。それにあわせて準備講壇がもたれることも恒例である。今年は黙示録のラオデキヤの教会へのメッセージから、三つのテーマを取り上げ、教会総会を迎えることにする。今朝のテーマは「燃えよう」である。
Ⅰ ラオデキヤの教会の状態。
①繁栄した町の教会
* この町の特徴は交通の要所であるが要塞ではない。戦争に弱く平和に有利であった。パクス・ロマーナのもとで繁栄した。特に織物業、薬、温泉に栄えた。教会のメンバーの中にも裕福な者が多く、緊張を回避する傾向は、教会の中にもあった。
②生ぬるい状態。
* 緊張を嫌えば熱くにもなれないし冷たくにもなれない。すなわち、生ぬるい状態であった。ところがこの状態は霊的には何の役にも立たない状態で、復活の主イエスから吐き出そうと言われた。これは彼らの関心がただ保身にあったことを意味する。
③主から受けた忠告。
* 主から三つの忠告を受けている。1「買いなさい」、2「悔い改めなさい」、3「戸をあけなさい」である。生ぬるさは、この世と調子を合わせようとする(ロマ12:2)ところから来ていた。むしろ、彼らには神との関係を改善することのほうが大切であった。
Ⅱ 現代の教会の実情。
①ラオデキヤ的。
* 現代教会はまさにラオデキヤ的である。物質主義は世界の隅々にまで浸透しつつある。この繁栄は平和を如何に維持するかにかかっている。緊張を持ってくる勢力はテロとして、徹底的に追放される。現状を維持することこそが正義である。
②緊張の回避。
* クリスチャンとして標準的な生き方をしようとすれば、回りに緊張を生むことを経験している。本能的にこれを回避しようとしてきたことは確かである。どこに知恵があるのかも模索してきた。これがクリスチャンを無力としてきたことも分かっている。
③熱死状態。
* 本来はクリスチャンは一人いても緊張をもたらす異色の存在である。クリスチャンには温度がある。これをきらえば、生ぬるい状態となり熱死の状態となる。この世にあって邪魔にもならなければ証しにもならない。これが現代教会の実情である。
Ⅲ 燃えよう(ロマ12:11)。
①祈ること。
* 燃えるためには主から火をいただかなければならない。「たとえ遅くとも」と主は言われた。聖霊に満たされて火を持つことができる。朝に祈り夕に祈り、教会に来て祈る。「上から力を着せられるまでは」(ルカ24:49)のとおり、主からの火で燃えよう。
②志を立てること。
* 神は明確な世界戦略、ご計画を持っておられる。私たちがそれに関心を持たないでいいはずがない。今、私たちが心を燃やすことができるのは、リバイバルである。信仰が燃えて、その火が飛び火して、それによって多くの人々が救われるように。
③立ち上がること。
* 主は「あなた方は世の光である」と言われた。それを自覚したなら、「輝かせ」と言われる。御霊の方法を持って行動を始めることである。祈って御心と導きを確認して、主のご計画がなることを志しながら、それを喜びとして、毎日を生きることである。
<結論>*今の世界、クリスチャンが緊張を回避したら、他の方角から緊張がやってくる。天からの緊張でなければ、地獄から緊張が来る。神も燃えておられるなら、サタンも燃えている。私たちは神の火を地上にもたらしたいものである。(A.S.S.)

1月 4日の礼拝説教要旨

  『恐るべき勝利』詩篇76篇)2004、01、 4(年頭奨励礼拝メッセージ)→
* 神が私たちに求めておられることは、神が今も生きて働いておられることを、世に知らせることである。世の人たちには神は見えていない。神は教会にご自身をあらわしておられる。神は教会を通してご自身を世に現わそうとしておられる。
Ⅰ イスラエルの歴史に見る神の勝利
①救いに現わされた勝利(:1)。
イスラエルの歴史の特徴は、苦難の時の神への叫びである。エジプトの奴隷の時、彼らはうめき叫んだ(出エジプト2:23~25)。神はこの呻きを聞かれて立ち上がられた。イスラエルにはこうした事例が満ち満ちている。イスラエルの神は祈りに答えて救いなさる神である。
②苦難と試練に現わされた勝利(:3)。
* イスラエルは、苦難の中でも悔い改めず、祈ることをしなかったために、国は滅亡し民は捕囚の憂き目に会った。しかし、そのイスラエルの歴史の最も暗黒の時に、イスラエルの信仰を最高に引き上げられた。この勝利はまことに顕著である。
③信仰に現わされた勝利(:7)。
* イスラエルほど、苦難をなめさせられた民族はない。普通なら、そうした神は信じるにあたいしない神である。しかし、その中でイスラエルは自覚した。悪いのは自分たちであって神ではない。神はいつも真実であった、との信仰に導かれた。
Ⅱ 教会の働きに見る神の勝利。
①苦難を乗り越えてきた教会。
* 教会歴史もまた苦難に満ちている。どんな信者でも迫害は日常的に経験している。それでも教会は存続し続けてきた。苦難は信仰を浄化し輝かせるものであっても、信仰を根絶やしにするものではない。ここに神は生きておられることが現わされた。
②世界に拡大してきた教会。
* 伝道の現場で痛感するのは、人の心にある根強い神への反発心である。教会を一歩出れば、あらゆる組織は神なしの活動をしている。この世と逆行する流れの中で、教会の伝道は推進し、振り返ってみれば、確かに教会は進展して来ている。
③たえずリバイブされてきた教会。
* 教会のいのちは聖霊である。光明が見えずに、クリスチャンたちの信仰が低迷した時に、ちょうど新たに燃料がくべられるようにして、教会は燃え続けてきた。今年、最も必要としているのは、この新たな燃料である。このために信じて祈り続けよう。
Ⅲ 神の勝利を信じて。
①神は私たちとともにおられる。
* この世の混乱は、神を求めることをしない限り、おさまることはない。解決の鍵は教会に与えられている。なぜなら、主は教会とともにおられるからである。もし私たちが世界の救いのため、リバイバルのために祈るなら、神はそれをしてくださる。
②神への敵対は無効となる。
* 本気になってクリスチャンたちが立ち上がれば、人々の反抗心も顕著となってくる。こうした時、信仰が試される。最後の勝利は神の側にあることを決して疑ってはならない。愛する者たちの救いのために、立ち上がるのがこれからの使命である。
③神を信じて進もう。
* もう一度、次の三つのことを確認しよう。神は私たちとともにおられること。最後の勝利は神がとられること。私たちの使命は、神の救いが達成されることであり、そのためにはこれからリバイバルを祈るべきであること。神を信じて進もうではないか。
<結論>*神は今は忍耐しておられる。しかし、最後には勝利をとられる。この神の勝利のために、私たちは身をささげることができる。神を見上げ期待しながら、祈ろう。「神よ。この年は、あなたが勝利の神であることを私たちに見せてください」と。(A.S.S.)

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