2005年度礼拝説教要旨

  01月01日『主の真実は大盾』 (詩篇91篇)2005,01,01(元旦礼拝メッセージ)
  01月02日『この方こそ待ち望んだ主』(イザヤ25章)2005,01,02(年頭奨励礼拝メッセージ)
  01月09日『委ねられた福音』(Ⅰテモテ1章3~11節)2005,01,09(教会総会準備礼拝メッセージ)
  01月16日『すべての人のために』(Ⅰテモテ2章1~7節)2005,01,16(教会総会準備礼拝メッセージ)
  01月23日『敬虔のための鍛錬』(Ⅰテモテ4章6~16節)2005,01,23(教会総会準備礼拝メッセージ)
  01月30日『信仰の戦いを戦い』(Ⅰテモテ6章11~16節)2005,01,30(教会総会奨励礼拝メッセージ)
  02月06日『心 を 考 え る』(マタイ5章8節)2005,02,06(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  02月13日『結婚についての意見』(Ⅰコリント7章25~29節)2005,02,13(コリント人への手紙講解・№25)
  02月20日『神の前に全き者であれ』(創世記17章1~8節)2005,02,20(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  02月27日『終末に生きるクリスチャン』(Ⅰコリント7章29~35節)2005,02,27(コリント人への手紙講解・№26)
  03月06日『ともに行かれる神』(創世記46章1~7節)2005,03,06(年会送別礼拝メッセージ)
  03月20日『61年目の出発』(Ⅰサムエル2章1~11節)2005,03,20(年会報告礼拝メッセージ)
  03月27日『ヨナよりもまさった者』(マタイ12章38~42節)2005,03,27(イースター礼拝メッセージ)
  04月03日『聖霊と火とのバプテスマ』(マタイ3章11,12節)2005,04,03(聖霊待望礼拝メッセージⅠ)
  04月10日『わたしの心だ。きよくなれ』(マタイ3章11,12節)2005,04,10(聖霊待望礼拝メッセージⅡ)
  04月17日『たましいの安らぎ』(マタイ11章25~30節)2005,04,17(聖霊待望礼拝メッセージⅢ)
  04月24日『カインとアベル』(創世記4章1~16節)2005,04,24(教会学校合同野外礼拝)
  05月01日『麦と毒麦のたとえ』(マタイ13章24~30節)2005,05,01(聖霊待望節期礼拝Ⅳ)
  05月08日『天と地をつなぐもの』(マタイ18章15~20節)2005,05,08(聖霊待望節期礼拝Ⅴ)
  05月15日『今は聖霊の時代』(使徒の働き1章6~11節)2005,05,15(ペンテコステ礼拝)
  05月22日『結婚についての牧会的奨励』(Ⅰコリント7章36~40節)2005,05,22(コリント人への手紙講解・№27)
  05月29日『回復のメッセージ』(イザヤ27章1~6節)2005,05,29(第五聖日奨励礼拝メッセージ)
  06月05日『私たちの病を背負われる主』(マタイ8章14~17節)2005,06,05(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  06月12日『知識と愛と徳』(Ⅰコリント8章1~7節)2005,06,12(コリント人への手紙講解・№28)
  06月19日『わたしにとどまりなさい』(ヨハネ15章1~5節)2005,06,19(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  06月26日『信仰の弱い兄弟のために』(Ⅰコリント8章7~13節)2005,06,26(コリント人への手紙講解・№29)
  07月03日『イエスとはどんな方か』(マタイ8章23~27節)2005,07,03(第一聖日伝道礼拝)
  07月10日『働き人の権利について』(Ⅰコリント9章1~10節)2005,07,10(コリント人への手紙講解・№30)
  07月17日『捕らえてくださる主を信頼して』(ピリピ8章10~14節)2005,07,17(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  07月24日『福音を宣べ伝える者の報酬』(Ⅰコリント9章11~18節)2005,07,24(コリント人への手紙講解・№31)
  07月31日『メシヤが世界を支配する時』(イザヤ32章1~8節)2005,07,31(第五聖奨励道礼拝)
  08月07日『罪を赦す権威』(マタイ9章1~8節)2005,08,07(第一聖日伝道礼拝)
  08月14日『すべてのこと福音のために』(Ⅰコリント9章19~23節)2005,08,14(コリント人への手紙講解・№32)
  08月21日『キリストにある信仰の歩み』(コロサイ2章6~7節)2005,08,21(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  08月28日『決勝点を目指して』(Ⅰコリント9章24~27節)2005,08,28(コリント人への手紙講解・№33)
  09月04日『おいでになるはずの方』(マタイ11章1~6節)2005,09,04(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  09月11日『荒野の出来事と警告』(Ⅰコリント10章1~6節)2005,09,11(コリント人への手紙講解・№34)
  09月18日『キリストのうちに選び』(エペソ1章3~7節)2005,09,18(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  09月25日『御子イエスの血』(Ⅰヨハネ1章1~10節)2005,09,25(徳山教会礼拝メッセージ)
  10月02日『安息日の主』(マタイ12章1~8節)2005,10,02(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
  10月09日『荒野の戒めを教訓とする』(Ⅰコリント10章7~13節)2005,10,09(コリント人への手紙講解・№35)
  10月16日『魂の静けさのうちに』(詩篇62篇)2005,10,02(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
  10月23日『エリヤの神は何処におられるか』(Ⅱ列王2章6~14節)2005,10,23(教団創立記念礼拝メッセージ)
  10月30日『神の御言葉の確かさ』(イザヤ34章9~17節)2005,10,30(教団創立記念礼拝メッセージ)
  11月06日『マクベラの墓地』(創世記23章)2005,11,06(召天者記念礼拝メッセージ)
  11月13日『小さい時から』(マルコ10章17~22節)2005,11,13(子ども祝福日礼拝メッセージ)
  11月20日『洗礼の恵み』(マルコ16章14~20節)2005,11,20(特別収穫感謝礼拝メッセージ)
  11月27日『アベ・マリヤ』(ルカ1章26~38節)2005,11,27(聖誕待望礼拝メッセージⅠ)
  12月04日『マグニフィカト』(ルカ1章39~56節)2005,12,04(聖誕待望礼拝メッセージⅡ)
  12月11日『ベネディクトス』(ルカ1章67~80節)2005,12,11(聖誕待望礼拝メッセージⅢ)
  12月18日『グローリヤ・イン・エクセルシス』(ルカ2章8~20節)2005,12,18(クリスマス礼拝メッセージ)
  12月25日『ヌンク・ディミテス』(ルカ2章21~35節)2005,12,25(年末感謝礼拝メッセージⅣ)
 

6月19日の礼拝説教要旨

『わたしにとどまりなさい』ヨハネ15章1~5節)2005、06、19(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
* 第三聖別礼拝も実は久しぶりである。今朝は自分の魂と信仰の問題を直視して、みことばの光に照らしていただきたい。信仰がいのちであるとの自覚に立つなら、主のことばである「とどまりなさい」は、原則中の原則であることを知ることになる。
Ⅰ 危険にさらされているいのち
①ことばは心を刺す剣。
ことばの暴力と言われるように、ことばが心を傷つける。実はこうしたことは日常のように行われているが、これがよりいっそう神へと行かせるよりも、信仰まで駄目にすることがある。主イエスは躓きがあると言われたが、これは深刻である。
②世の空気はウィールスがいっぱい。
* この世の風潮は信仰の価値観を鈍らせる。クリスチャンの信仰は四六時中ウィルスにさらされている。ダビデがいつでも「神の避け所」に逃げ込んだが、これが信仰を守るワクチンである。しかしほとんどの場合、ウィルスにさらされていることが多い。
③信仰の発達障害に要注意。
* 信仰の栄養不足、運動不足、機能不全が信仰の発達障害をもたらしている。魂の意欲がないことが、信仰の発達を妨げている。人との比較、この世への未練が抜けない限り、信仰の発達障害を防ぐ手立ては、なかなか見つからない。
Ⅱ 信仰の健康管理
①みことばによる養い。
* そのため、健康管理が必要である。管理されない魂は多くの危険にさらされている。第一は毎日の栄養補給であるみことばの養いである。粗食ではあっても毎日取ることが肝要である。朝、聖書を開いて1章を読むことが、着実な成長を保障する。
②祈りによる循環。
* 祈らなければ神は何もなさらない。神がいない世界ほど不可解なものはない。こんな世界の空気を吸っていたのでは信仰は育たない。もっと祈ることによって、神がおられ、その愛が充満し、使命に満ちた空気を吸いながら、進むことが大切である。
③奉仕と証しによる新陳代謝。
* 食欲を満たすほどに食べ、精神をリフレッシュするほどに楽しむのはよい。しかし暴飲暴食はよくない。過ぎることは魂の欲求不満を募らせるだけである。魂は神のために生きているという証しが欲しい。奉仕と証しがそれを満たす一つの道である。
Ⅲ 「わたしにとどまりなさい」
①ぶどうの木と枝。
にとって幹と連なっているのが正常である。この状態にい続けることを「とどまる」という。一方、この正常さを保つためには剪定が欠かせない。キリストと信者との関係においては、厳しい試練のときであるが、すべては魂の健康のためである。
②農夫が管理する。
* 父は農夫と言われた。幹と枝の状態の管理は農夫の仕事である。ある意味で信者は何もすることがない。じっと、委ねて最低限「とどまっていなさい」という指示に従うことである。私たちは何もすることがないということは、非常に重要である。
③時が来ると実を結ぶ。
* 「とどまる」私たちのすることはただこれだけである。悲しみ、疑問、あせりの心をすべて主に委ねて、忍耐して待つなら、やがて樹液が循環して、芽を吹き葉を出し結実の時を迎える。すべて主のみわざによっていのちが循環し、完成する。
<結論>*信仰はいのちの原理によって進展する。作るのではなく成るのであり、築くのではなく育てるのである。枝になって実になって、農夫である主に委ねよう。そうすれば主が成し遂げて下さる。「とどまる」ことをもっともっと熟知しよう。(A.S.S.)

 

6月12日の礼拝説教要旨

『知識と愛と徳』Ⅰコリント8章1~7節)2005、06、12(コリント人への手紙講解・№28)
* コリントの問題がまた浮上してきている。今度は偶像崇拝の町特有の問題である。この問題では日本の環境ともオーバーラップするところがある。異教文化の感化はなかなか抜けないことを知って、こころして今日の問題を学んでいきたいと思う。
Ⅰ 「知識を持っている」と言う人について(:1~)
①知識は人を高ぶらせる。
* コリントの教会で知識を持っているという人は、【偶像にささげられた肉】を平気で食べていた。そして肉を食べない人をさげすんでいた。こうして彼らの高慢が、知識のない人たちを躓かせていた。このように、知識はしばしば人を高ぶらせる。
②「無知」の認識。
* もし自分が知識を持っていると思うなら、それはほんの小さな知識であって、知るべきことも知っていないことを自覚すべきである。この【無知の自覚】に立つなら、人はみな神の前には同列であって、謙虚な思いを持つことが出来る。
③「神に知られている」との認識。
【本当の知識】とは、「神に愛されている」ことを知っていることである。この知識に立つなら、「神を愛する」ことができる。この愛をもって兄弟に向くなら、無知をさげすむのではなく、彼らの信仰を建て上げようという思いになれるはずである。
Ⅱ 「唯一の神と偶像」について(:4~)
①偶像にささげられた肉。
* コリントでは、儀式や魔よけのために、すべての肉は実質的に偶像にささげられていた。気にしていては肉は食べられない状況にあった。そんな中でもこれを【気にして】悩む兄弟がいた。一方では、気にしない人がいて、互いに溝を作っていた。
②神々の存在について。
* 偶像や神々についてはこういうことになる。(1)偶像は本当はいない。(2)もし神々がいるとしても、その存在は唯一の神による。こうして推論していけば、肉は偶像にささげられたかどうかは問題ではない。そんなことでは何も変わらないことになる。
③主なるイエス・キリストについて。
* 主イエス・キリストの神であることを信じるなら、すべての存在はこの方により、主とかかわりのないところで、肉がのろわれたり変質したりすることはない。主への信頼があるなら、感謝して受けるとき、すべてが益となることを知ることができる。
Ⅲ 「弱い良心」を持つ人について(:7)。
①異教的習慣になじんできた人。
* 異教ではそうではない。呪いが物を変質させ、かたちが実質的な変化をもたらすと考える。そしてコリントには、なかなかこうした習慣から抜けきらない人がいた。彼らは神経質に、異教ののろいから遠ざかろうとして、神経を消費していた。
②知識ではなく愛を。
* こうしたことは、ある意味で染み付いた感覚である。彼らには知識で近づくのではなく、愛と思いやりで接していかなければならない。分かっていても気になるというのが本当のところである。こうした感覚の問題にはもう少し思いやりが必要である。
③徳を建てるために。
* 確かにクリスチャンは正しい知識を持つことは大切ある。しかし、信仰がつぶれたら何もならない。この面から、献金の問題、集会出席の問題、奉仕の問題を扱う必要がある。まず信仰が壊れないこと、そして成長すること。これが徳を建てることである。
<結論>*この世には神以外からくる祝福ものろいもない。すべてのものは神によって存在している。しかし教会にまだこの知識に達していない兄弟がいたなら、思いやりと忍耐を持って、互いに徳を建てることを優先しようではないか。(A.S.S.)

 

6月5日の礼拝説教要旨

『私たちの病を背負われる主』(マタイ8章14~17節)2005、06、05(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
* 病は人が医者と救い主を必要としていることを明らかとしている。神がおられるなら、救い主はおられる。実に彼は私たちに与えられている。当時の人々はこの方こそ救い主と知った。そして現在まで、多くの人々がこの方の許に来たのである。
Ⅰ 病を癒すイエス
①病に悩む人々。
* イエスが山から下りられると、病を負う人々が次から次とやってきた。らい病人、盲人、からだに故障を持った人々と。ペテロのしゅうとめは熱病で苦しんでいた。病は部分的な死を彼らにもたらした。イエスが病を癒すと聞いて、人々は押し寄せて来た。
②悪霊に憑かれた人々。
* 悪霊に憑かれた人々も多く御許にやってきた。今で言う精神的やまいの人々である。彼らの怪奇な行動のゆえに、社会から追放された。しかし彼らもまた悩む人々であった。恐らくこの機会を逃したら、いやされることはないと思い、真剣にやってきた。
③預言の成就。
* マタイはこれらの一連の出来事を、イザヤの預言の成就として提示している。イザヤ53章は有名な「メシヤの受難」の章句である。彼はメシヤの使命を果たすために、人々の病を背負われた。マタイはイエスが預言者が言うメシヤであると確言する。
Ⅱ 人が背負っている病
②肉体のやまい。
* 病院が溢れているように、多くの人々が肉体のやまいを負っている。ひとたび病が襲うと、人生は狂ってしまう。不治の病と知れば、生きる希望もなくしてしまう。神を恨む人も出るほどである。しかし多くの人々はイエスの御許に救いを求めてやってきた。
②精神的やまい。
* 精神のやまいがある。人生に対する不安、自分に対する失望から、神経が犯される。明日が不安になる。そのため今日の生活ができなくなる。この人々は心の拠り所を求めて。過去、現在、未来を保障するそうした確かな拠り所を求めている。
③魂のやまい。
* 実に多くの人々は魂のむなしさに悩まされている。富を手にし、地位、名誉を手にした人々の中に魂の空白が圧倒している。得たと思ったものが、本当に自分が得たいと思ったものではなかった。彼らは実はもっと大きなものを求めていたし、求めている。
Ⅲ 主の御許に行こう
①らい病人のように。
* イエスが山から下りて来られると、すぐにひとりのらい病人がやってきた。彼の言葉は如何に真剣であるかを示している。彼はチャンスを掴んだもののように、決してこの機会を逃すまいと思う人のように、嘆願した。この人のように、主に求めよう。
②主に癒す力があることを信じて。
* 彼は「おできになります」(:2)ときっぱりと告白している。彼は自分の無力を認識し、その上で主がメシヤであると信じてやってきた。助かると信じたら、どこまでも行く。これは人間の本来の正直な姿である。彼は素直に救いを求めてやってきたのである。
③主は完全に癒す方。
* 21世紀の現在、イエス・キリストが救い主であることは、歴史によって充分に実証されている。不信は人間の魂のやまいとして残っているだけである。この魂に巣くっている不信を克服して、私たちを完全に救ってくださるお方に、求めようではないか。
* <結論>*イエスに救いを求めた人は真剣であった。彼らは求めたからこそ得たのである。信じたからこそ救われたのである。もし不信が自分の心の中にあるなら、そのことを主に訴えて、真剣に求めようではないか。(A.S.S.)

 

5月29日の礼拝説教要旨

『回復のメッセージ』(イザヤ27章1~6節)   2005、05、29(第五聖日奨励礼拝メッセージ)
* 信仰生活で空回りしていないか、神の思いと私たちの思いが噛合っていないか。自分なりの善悪基準で良しとしていないか。神にとっては神とともに歩んでいないことが一番悪い。神を信頼して歩んでいるだろうか。この辺を検証することにしよう。
Ⅰ 神の怒りが終わるとき(:1)。
①預言者のイメージによる描写。
* 「レビヤタン」は、竜のように想像上の生き物である。預言者が見ている世界は天と地、見える世界と見えない世界で起こっている。こうしたことを描写するためには五感で知られるものだけでは表現しきれない。それであらゆるイメージが駆使される。
②神への反抗勢力としてのレビヤタン。
* レビヤタンはエジプト、アッシリヤなどイスラエルに敵対する国々を象徴する。神はこれを神への反抗と見なされる。彼らは貪欲に駆られてひたすら世界征服へと向かったが、そうしたことは決して成功しない。神への反抗による夢は必ず砕かれる。
③神の敵はことごとく滅ぼされる。
* 人は理想を描き、成功を夢見て突き進むとき、それらは思わずも神への反抗となることがある。なぜなら、神ご自身も世界戦略を持っておられるからである。神はご自分の計画が犯されることをお許しにならない。神の敵は必ず滅ぼされる。
Ⅱ 神の愛が明らかとなるとき(:2~)。
②「麗しいぶどう畑」。
* これはイスラエルを意味するが、この国の現実は不信仰と偶像礼拝で汚れに汚れている。しかし神はイスラエルへの愛のゆえに、高価で尊い宝のように見ておられる。決して「捨ててしまえ」と言えるものではない。神の目には「麗しいぶどう畑」である。
②「水を注ぎ」。
* 神はずっとイスラエルを見守ってきた。彼らが神に背を向けても、絶えず「水を注い」できた。神は決してイスラエルから目を離したことはなかった。「イスラエルを守る方」は、夜昼眠らずに、絶えてしまわないように、寝ずの番をして来られたのである。
③「もう怒らない」。
* 神の怒りは生易しくはないが、いつまでもではない。私たちには苦難の時代は長いと思うが、神は最短で終わらせたいと思っておられる。それは短いに越したことはない。「いばらとおどろ」はレビヤタンと同じで神はその猛威をお許しにならない。
Ⅲ 神の民が回復するとき(:5~)。
①和解への招き。
* 「頼りたければ」と、どこまでも自由意志に訴えている。だからこそ、神の招きがあったときには即座に応答しよう。なぜなら、それはちょうど良いときだからである。ぐずぐずには、あるいは憐れみがあるかも知れない。しかし強固な反抗にはそれはない。
②回復のきざし。
* 兆しが見え始めたら、より一層、自分の信仰に注意しよう。不注意のために芽が枯れることがある。この時に自分を変えるために神に身をゆだねることが重要である。もう後戻りしない。この決心のもとに明け渡していくなら、完全な回復は近い。
③世界的な祝福。
* 本当の霊的祝福は、ひとりの人の中では終わらない。家族の祝福となり、それは教会の祝福となり、周りの人々への祝福となり、ついには一国の祝福となり、その波紋は清水のように広がりに広がり、世界の隅々にまで及んでいくことになる。
* <結論>*事がギクシャクしてうまくいかない原因は、ほとんどの場合、自分でよいと決めて、神に従っていないことがある。もう一度そうした隙が入り込んでいないかを探っていただき、神への信頼を、告白しようではないか。(A.S.S.)

 

5月22日の礼拝説教要旨

『結婚についての牧会的奨励』(Ⅰコリント7章36~40節)    2005、05、22(コリント人への手紙講解・№27)
* 聖書は信仰者のすべての行動を規定しているわけではない。ある場面では信仰と当時の社会常識によって判断しなければならないこともある。ここの、パウロの牧会的奨励はそうした場合にヒントになることがあるので、今朝の学びとしたい。
Ⅰ 娘を結婚させたいと思っている人。
①「やむをえないこと」(:36)。
* 自分の娘の婚期で悩んでいる人がいた。「正しくない」「やむをえないこと」というのは当時の社会的事情がこの問題に絡んでいたと思われる。彼は自分の考えに自信が持てなかった。クリスチャンとして何が正しいのかと悩んでいたようである。
②「心のままに」。
* 「自分の判断」のこと。神に祈り、熟考し、事情を考慮した上での判断のことである。私たちはこうしたことで、何か神秘的なことを期待すべべきでない。ほとんどの場合、私たちは自分で決断しなければならない。だから普段の信仰生活が大切である。
③罪を犯すわけではない。
* 事情の中で第一に考慮されなければならないのは、本人たちの意志である。また社会的な事情もある。ここから自分の意図とは違った方向に行くことがあっても、「罪を犯すわけではない」とパウロは言う。こうした時、主に委ねることを学ぶべきである。
Ⅱ 結婚させるべきでないと思っている人。
②「堅く決意していること」(:37)。
* ちょうど反対の人もいた。「いやクリスチャンはこうすべきだ」と固い信念に立っている人である。彼らはどうやら、「クリスチャン女性」は結婚すべきでない、との信念を持っていたようである。こうした確信の問題は、信仰者の間では常に問題となる。
②自分の思うとおりに。
* 何事でも、問題なく自分の思うとおりに行えるのなら、それはそれでよい。しかし、ことはそう単純ではない。社会は複雑である。クリスチャンの確信が人間関係をこじらせることがある。こうした具体的問題を考えるとき、何か判断基準が必要である。
③良いことともっと良いこと(:38)。
* 「これこそ御心」と思えることをいつでも確信を持って実行できるなら、こんな素晴らしいことはない。たとえ最善と思っても、その通り実行できない場合もある。これはよいこれはいけないの問題ではなく、善と最善の問題だとパウロはいう。
Ⅲ 再婚を考えている人(:39,40)。
①律法に照らして。
* モーセの律法には直接この条文はない。これは一般的に行われていた解釈か、社会常識かローマ法かであろう。法律や律法は生きている人のためであって、死んだ人には適用されない。だからひとりとなった場合は、もう縛られることはない。
②主にあって。
* その場合でも「主にあって」である。クリスチャンとしての常識はクリスチャン同士、とパンロは考えている。さらに、「より一層、主に仕えることが出来る」ことが大切である。自由意志を尊重しながら、「神第一」を基準にして行動すべきである。
③付随的な意見。
* 最後にパウロは「私の意見では」という。「そのままがよい」これが使徒の意見である。この意見が、いつでもどこでも最善かはわからない。しかし、パウロの「よりいっそう神に仕えるために」と言うこの精神は、クリスチャンは堅持したいものである。
* <結論>*結婚と言う具体的な問題を素材にしながら、ここでは信仰者の行動基準が述べられている。神への信仰と他人への思いやりが、この基準の根底にあることを心したい。祈りつつ、しっかりと判断することは大切である。(A.S.S.)

 

5月15日の礼拝説教要旨

『今は聖霊の時代』(使徒の働き1章6~11節) 2005、05、15(ペンテコステ礼拝メッセージ)
ペンテコステは教会にとって、最も重要な日である。待望節期を通して、聖霊の理解も深まったと思うが、今度は実際に聖霊に満たされることである。今日のペンテコステの日に、単なる記念日とするのでなく、「聖霊の満たし」を実体験したいものである。
Ⅰ 歴史の中の聖霊の時代
①御父の時代。
* 17世紀の神学者ジョン・オーエンによって聖書の時代は三つに区分された。第一は天地創造からキリストの来臨までの時代で「御父の時代」。この時代は「唯一の神」を信じることが強く求められた。イスラエルはそのモデルとして選ばれた。
②御子の時代。
* 御子がメシヤとして地上に来られたのはイスラエルに対してであった。彼らは余りにも唯一神の信仰に規定されたため、人の姿で来られた神を受け入れることは困難であった。そのため主イエスはユダヤ人によって十字架にかけられた。
③聖霊の時代。
* ペンテコステの日に聖霊が下ってから現在まで「聖霊の時代」となった。今は主を見ないで信じる時代である。しかし、聖霊が人の心の中に働いて霊的な欲求を起こし、見ることのできない神、目で見たことのない主を信じる信仰を与えてくださる。
Ⅱ 聖霊が臨む
①ペンテコステの日に始った。
* 以上の理由から、ペンテコステは新しい時代の曙である。旧約時代にもモーセや預言者たちのように、聖霊に導かれた人はいた。しかし普遍的に、聖霊が臨むための備えが出来上がったのは、主が昇天された後のペンテコステの日からであった。
②弟子たちに臨んだ。
* 最初は屋上の間に集まった弟子たちに注がれた。彼らは一つの部屋に集まって十日間、熱心に祈った。祈りの中で彼らの心の備えが出来上がって行った。ついにペンテコステの日になって、聖霊が象徴を伴って、一人一人の上に臨んだ。
③こうして教会となった。
* この日、聖霊のいのちを宿した教会が誕生した。建物としてでなく、組織としてでなく、いのちを持つ実体としての教会である。2000年の歴史の間、燃えた時代、死んだような時代があったかも知れない。しかし聖霊をいのちとして教会は存在し続けた。
Ⅲ 聖霊の器として。
①聖霊が臨むと。
* 聖霊を受ける唯一の条件は、「求め」である。生まれながらの人は、食欲不振という癒しがたい病を持っている。神への不信仰を悔い、赦しを受けた者にして、ようやく、「聖霊を得たい」との欲求が生まれる。心を空にして求めるなら、聖霊は臨む。
②力を受けて。
* 聖霊は「新しいいのち」として、心の中心に住む。人として自分を制御できるのは、この時からである。「たましいを押し流そうとする三つの流れ」がある。「この世の潮流」と「サタンの誘惑」と「心の中から湧き出てくる肉欲」である。この力はこれを克服する。
③キリストの証人となる。
* この世に、「救い主としてのキリスト」の存在を明らかにするのは、クリスチャンの生き様だけである。世の人々は聖霊に満たされたクリスチャンを見て、救い主は本当におられるのだ、と知る。私たちは聖霊に満たされてこそ、真に証人となり得る。
<結論>*「聖霊に満たしていただきたい。」こうした熱い思いをぜひ持ちたいものである。この思いを持って求めるなら、御父は憐れみに満ちたお方である。求める者を拒むことは決してなさらない。ですから熱い思いを持って求めよう。(A.S.S.)

 

5月8日の礼拝説教要旨

『天と地をつなぐもの』マタイ18章15~20節)2005、05、08(聖霊待望節期礼拝Ⅴ)
* 「罪を犯した兄弟」のことから話が始まっているが、こうして聖霊を阻む重大性がここでは語られている。教会をきよめ、一致の絆で結ぶのは聖霊である。教会は早く一致して束になって、聖霊によって地上で御心を実行するために進むべきである。
Ⅰ 天と地をつなぐもの(方)。
①父なる神は天におられる。
* これは動かすことの出来ない事実である。私たちは御子を通してでなければ、御父にいたることは出来ない。御子を通して父に祈り父に至る。御子を通してでなければ、私たちの御父への信仰は盲目となる。ここに真実の信仰がある。
②御子は地上を歩まれた。
* 御子が地上を歩まれたその記録は福音書にある。だから御子のイメージは福音書によって得られる。今御子は天におられるが、御子が地上を歩まれたゆえに、私たちは御子のイメージを持っている。ですから私たちは御子に祈ることができる。
③聖霊は教会に注がれた。
* ペンテコステの日、約束の聖霊は教会に注がれた。これはクリスチャン一人一人に注がれたことを意味する。私たちは聖霊がどのように内住しておられるか知ることはできない。それは信仰による主イエスへの愛によって実感している。
Ⅱ 聖霊と教会の関係
①聖霊は教会に内住しておられる。
* 聖霊と教会の関係は人間の肉体と精神の関係と似ている。教会は聖霊の手足である。聖霊は父の御心を持って教会に注がれ、地上に来られたが、教会を通してでなければ、御心を実行することが出来ない。聖霊は教会の精神として内在しておられる。
②教会を通して世に働かれる。
* 聖霊は教会(クリスチャン)を通して世に御心を実行すようとされる。ですから地に御心が行われるのは、実は聖霊である。クリスチャンはただ聖霊が自由に働かれるために、自分のからだを差し出すことである。こうして地に御心が実行される。
③聖霊の働きを阻止するもの。
* 18節の「つなぐ」「解く」は、信者を通しての聖霊の働きと関係がある。自分のからだを聖霊の働きのために明け渡したとき、天と地をつなぐことになる。反対は、聖霊と地上との関係を解くことになる。奉げないことが、聖霊の働きを阻止することになる。
Ⅲ 教会の使命。
①聖霊を受け入れること。
* このことは地にリバイバルがもたらされることと大いに関係がある。それは私たちの献身如何にかかっている。何よりもまず聖霊を受け入れること。次に私のからだは聖霊の手足であることを認めること。そして明け渡して自由に働いていただくことである。
②聖霊によって御心を行うこと。
* 私たちの手と足が聖霊が御心を行うためにささげられたなら、御心が天で行われるように、地上に御心を実行してくださる。私たちは自分の働きを通して、御心が実行されていることを見る。これはいまだかって見たことのない眼を見張る光景である。
③地上でつなぐこと。
* 教会の祈りは「天と地をつなぐ」。すなわち、聖霊の働きに道を開く。サタンが自由に働く時はまずます暗くなる。今のこの時代に、御心が行われることを見たいのなら、私たちは自分を奉げなければならない。聖霊はそれを待っておられる。
* <結論>*私たちは自分は小さな存在と思ってはならない。「地に御心が行われる。」という観点から見るなら、私たち一人一人の献身にかかっている。「聖霊の器」という意味で私たちの存在は決して小さくない。このことを覚えて祈ろう。(A.S.S.)

 

5月1日の礼拝説教要旨

『麦と毒麦のたとえ』マタイ13章24~30節)    2005、05、01(聖霊待望節期礼拝Ⅳ)
* 聖霊は現在の罪に満ちた世とどのようにかかわっておられるのか。これを知っておくことは重要である。天へと伸びる良い種と、地にへばりつく毒麦とが混在している時代に、信仰者は、忍耐を持って神に信頼していくことを学ぶ必要がある。
Ⅰ 聖霊の時代
①種まき(:24)。
* 教会による福音宣教は種まきにたとえられる。へりくだりと悔い改めの「良い地」に落ちると、「聖霊の内住」と言う新しいいのちが宿る。2000年の期間に世界に向かって教会は懸命に福音の種をまいてきた。だから今は「聖霊の時代」と言われる。
②芽生え、実り(:25)。
* 教会の働きは種まきだけではない。これに水を注ぎ育てることにも労がいる。信仰者に宿るいのちが芽生え実ると、ことばと行動にそれは現われる。こうしてこの地上に、天の御国は拡大していく。御心が世界の隅々にまで実現していくからである。
③収穫の時まで(:30)。
* こうした働きには期限がある。やがて終りが来て収穫のときがやってくる。おそらく21世紀の早い段階でそれは来ると考えられる。神は今、世界を揺り動かしておられる。神の前には生きている人も死んだ人も区別はない。終りに備えることが大切である。
Ⅱ 混在の時代
①敵も種をまく(:25)。
* 種まきに勤しんでいるのは神の子らだけではない。この世の子らもサタンに唆されて、毒麦の種をまいている。人間は知恵があるはずなのに、愚かなことをしているのは、毒麦の所為である。このため、これからの時代、ますますおかしくなっていく。
②眠っている間が危ない。
* 「この世の魅力」は信仰者にとって睡眠薬である。信仰者が眠っているなら、敵は働きやすい。現在はラオデキアの教会のように、世の冨に惑わされて眠っているので、敵はこの時とばかりに働いている。麦と毒麦の区別がつかない状態になっている。
③御国の子らを悩ます(:27)。
* 毒麦とは「この世の思い」である。世に世俗主義がはびこり、信仰者の心にそれが侵入してくると、信仰者を悩ます。確かに信仰者の心からは毒麦は抜き取らなければならない。しかしこの世に蒔かれた毒麦を抜き取ることは、麦にとっても危険である。
Ⅲ 信仰の時代
①麦を抜かないこと(:29)。
* 天の父にとって、たとえ毒麦に汚染されているとしても、御国の子である麦が抜かれることをお許しにならない。この世すれすれに生きているクリスチャンも、神にとっては大切な収穫するべき麦である。一つも失なわないためには、そのままが良い。
②忍耐が必要なこと(:30)。
* 今裁きが下ったら、世的なクリスチャンはみな滅ぼされる。だから真実な神の子らは忍耐しなければならない。忍耐のおかげで、信仰に戻ってくる人々もいる。サタンが働く苦難の時代ではあるが、こうした時代はいつまでも続くことはない。
③収穫を信じること。
* 今、神は七つの封印を次々と解いておられる。今神はショック療法をしておられるし、信仰者もそれに巻き込まれるかもしれない。しかし、信仰にしっかりと立って頂きたい。神は間違いなく、大いなる収穫をされる。私たちの忍耐の報いはそこにある。
* <結論>*悪と罪と汚れがはびこっているようでも、今の混在の時代はいつまでも続かない。私のうちに蒔かれた種を健康に育てることこそ肝要である。どこまでも神を信じ、教会の使命である種まきにもいそしみたいと思う。(A.S.S.)

 

4月24日の礼拝説教要旨

『カインとアベル』創世記4章1~16節)2005、04、24(教会学校合同野外礼拝)
* 聖霊待望節期であるが、野外礼拝では教会学校生徒ともに教案からの学びをする。教会学校は、この4月から創世記を始めたので、今朝は「カインとアベル」である。人間の心の深部を探ることになるので、深い内省を持って臨んでいただきたい。
Ⅰ カインとアベルの物語
①エバの子たち。
* エバはカインとアベルを生んだが、名前からカインの時には感激したが、アベルの時には感激は薄れていたことをうかがわせる。子どもは成長するに及んで次第に親の悩みの種になることがある。堕罪の影響は確実に次の世代にも受け継がれた。
②カインとアベル。
* 彼らは「羊を飼う者」「土を耕す者」となったが、これは彼らの適正に従った結果だった。カインもアベルも神にささげ物を持ってきたが、アベルの奉げ物は、念入りに注意深く、持ってこられたので神はこれを喜ばれたが、カインのはそうでなかった。
③神とカイン。
* カインは怒りに任せてアベルを殺した。主はカインを尋ねたが、カインの弁明は神を納得させるものでなかった。このため、カインはさすらい人となった。これは神から離れて生きる人の姿を言う。本質的にはすべての人は「さすらい人」となった。
Ⅱ 神が喜ばれる供え物
①「初子の中から」
* 母羊が最初に産んだ子で、これは「第一」を意味する。残りのものでなく「第一」を喜ばれる。それは「神の国と義」であって、地上にもう一度「神の国」が確立するために、神は御子を遣わされた。だから人にもそれをささげることを求めておられる。
②「最良のもの」
* 主はある時、青年貴族に向かって、財産は売り払って貧しい者に施せと言われたが、「あなたはわたしについて来なさい」と言われた。それは財産ではなく、「あなた」が最良のものであるからで、神はこれ以下のものを求めてはおられない。
③「自分自身で」
* 奉げ物を自分自身で携えて行こうとすれば、だれでも自分の弱さ罪深さを見ないわけにはいかない。それでも御前に進もうとすれば、へりくだり悔い改めるのでなければ、それ以上は進めない。アベルは自分から逃げないで神の前に進んだ。
Ⅲ カインの怒りの真相
①無視されたと思った。
* 神の扱いには差別があった。それを反省点としないで、無視されたと思った。自分に押し寄せてくるものを不当と思うなら、人は絶えず怒ることになる。自分中心でなければ無視されたと思い満足しないのなら、この世を生きることは大変辛いことになる。
②自尊心が傷つけられた。
* カインは兄であったが、それだけで自分は第一にされるはずだと思った。弟に先を越されたことは、彼の自尊心を砕いた。この思いをアベルを殺すことに向けた。人間はなんと恐ろしい面を持っていることか。だから救いを求めなければならない。
③自分に負けた。
* 精神的には弟が上であることを認めざるを得なかった。それで劣等感に圧倒されたが、それに勝てなかった。自分を治めることが出来なかった。その結果が恐ろしい殺人となった。私たちは最近世の中で起こっていることを人事と思ってはならない。
* <結論>*カイン性はすべての人間に受け継がれている。人は神の御前にへりくだるのでなければ、自分の罪深さをどうすることもできないものである。だから、心して神のみ前にはへりくだることを心がけなければならない。(A.S.S.)

 

4月17日の礼拝説教要旨

『たましいの安らぎ』(マタイ11章25~30節)2005、04、17(聖霊待望礼拝メッセージⅢ)
* 福音書において主が約束されたことは、ペンテコステによって実現した内住の御霊によって実行される。「たましいの安らぎ」もその一つである。ですから今朝も、そのことを念頭に置きながら、聖霊待望の礼拝を守ることができたら幸いである。
Ⅰ 心の重荷をおろす
①生きる重荷。
* さ迷っていた魂がキリストの御許に来て、心の重荷を下ろすことは救いの経験である。神と無関係の人生は生きること自体が重荷である。それは流れに逆らっているのと同じで、歴史の完成に向かう御心の流れに逆らうことは、まことに辛い生である。
②罪の重荷。
* 罪とは本質的には神に対する反逆であるが、神を知らない時代でも、様々な形で表れる。子どもの時には親に対して、若者は秩序に対して、成人でも「正しいこと」と真面目に対して、無視することで反逆している。これもまことに苦い生である。
③死の恐怖という重荷。
神なき人生はこの世しか見ない。それゆえに死の向こうはブラックボックスである。当分は無視することで対処しているが、刻一刻と近づいてくる死の事実はどうすることも出来ない。これを解決できていないことが、人にとっての大きな重荷となっている。
Ⅱ 主とともにくびきを負う
①自分の思いではなく、御心をとる。
* 世においてもサタンの国でも心を合わせ一致することは重要である。神の国においては特にそうである。それは、御心と一致しない自分の思いを拒否することである。主と同じくびきを負っていく以上、このことは避けて通れないこととなる。
②自分の分として与えられた十字架を担う。
* 十字架は人類の罪がそれを必然のものとした。主がそれを担うことで救いを実現したように、この救いが実効あるものとなるためには、神の子どもたちもこれを担わなければならない。だから世にあって十字架を負うことは、重要な奉仕の一つである。
③主の証人に徹する。
* 「あなたがたは、主の証人です」(ルカ24:48)と言われたとき、主は主に従う者の道を定められた。これは人生の意味にも通じる。人々が神と罪と救いについての真実を見るのは、クリスチャンたちが主の証人として生きているときにおいてである。
Ⅲ たましいに安らぎが来る
①主の愛と同情。
* 主は「わたしは心優しく」と言われたが、主とともに生きるときに、こうした主を日々に経験できることはまことに幸いである。くびきが主との密着をより確かなものとする。子どもが母親にぎゅっと抱きしめられる時の平安を感じならが、毎日を生きる。
②主の同行を確信する。
* 「わたしから学びなさい」と言われるが、主とともに生きる者は、もう迷うことがない。生きる目標がはっきりするだけでなく、日々に新しい発見がある。信仰に生きることが、こんなにもスリリングであったとは、経験して初めて知りえることである。
③内住の御霊の慰めがある。
* 十字架が時には重くのしかかってくることがある。そのとき、内住の御霊の慰めが近くにある。エリヤが大きな奉仕のあとで恐怖と孤独を感じたとき、主の使いが食物を持ってねんごろに扱っておられるが、これはその経験の一つである(Ⅰ列19章)。
* <結論>*主のしもべとして、罪に汚染されたこの世を生きることは確かに厳しい。こうした中、私たちには主の同行の約束がある。そしてこの同行こそが、何ものにも代えがたい神の恵みであることを、肝に銘じたいと思う。(A.S.S.)

 

4月10日の礼拝説教要旨

『わたしの心だ。きよくなれ』マタイ8章1~4節)2005、04、10(聖霊待望礼拝メッセージⅡ)
* 聖霊は人の心に入って魂をきよめる執行者である。主のみことばにある約束を、実際に実行される方は聖霊である。ですから、魂のきよめのわざをなさるのはうちにおられる聖霊である。こうした理解から、今朝の題目に接していただけたらと願う。
Ⅰ 「汚れている」レビ13章)。
①生ける屍。
* 「らい病」は新改訳聖書3版では「ツアラット」と訳されている。これは肉体的にも辛い病であったが、それ以上にイスラエル社会では、厳しく差別され精神的な苦痛は耐えがたいものであった。こうした意味で、彼らは生きながらの死人であった。
②神にのろわれた者。
* 彼らは会堂からも除外され、「神にのろわれた者」と言う烙印が押されていた。当時の城壁の町ではその中に入ることが出来ず、大方は郊外の洞窟の中が彼らの住居であった。食物も充分には与えられず、ただ死を待つだけの存在であった。
③罪人の型。
* これは見える形の罪人の姿を写すものであった。罪人とは神の御許から追放され、いのちの根源から切り離され、そのために肉体的には生きていても、霊的には死んだ者といわれている。人間は神の前にはみな「霊的ならい病人」である。
Ⅱ 「わたしの心だ。」
①主イエスとらい病人。
* 「ひとりのらい病人」が主の御許にやってきて言った。「お心一つで、私をきよめることがおできになります。」これは信仰と謙遜と確信のことばである。主はそれに応えられた。「わたしの心だ。きよくなれ。」こうしてらい病はたちまちのうちにきよめられた。
②主の御心。
* ここにあるのは、らい病人の欲求以上に、主ご自身の「きよめてあげよう」と言う強いご意志である。魂の問題の救済に対して、このように主の方が積極的である。躊躇があるのは人の側であって、神は決して留まってはおられない。これを知るべきである。
③出会いのその時。
* どんな人の人生にも、主が通り過ぎられるときがある。その時のチャンスを逃さず捉えなければならない。多くの人々が、魂の高まりを経験していながら、神の救いがすぐそこまで来ているのに、それを受け損なうのを見るのは残念である。
Ⅲ 「きよくなれ。」
①しつこい汚れ。
* らい病は人の魂に食い込んだしつこい汚れの象徴でもある。エレミヤは豹の斑点にたとえている。どんなやすりも石鹸も拭うことも落とすことが出来ない。忠告も懲罰も、魂の汚れをきよめることが出来ないのは、人類共通の経験である。
②主の御力。
* ひとたび主のみ手に委ねられたなら、魂に食い込んだ汚れ、「神への反逆心」はことごとく拭い去られ、きよめられる。「きよくなれ」と発せられた御ことばが、魂をきよめる力として働く。「御子イエスの血はすべての汚れからきよめられる。」
③主にゆだねること。
* らい病人のように、主への絶対の信頼を持ってゆだねること。問題が私たちの手にある間は、主は決してわざをおはじめにならない。ことが動かないときは、ほとんどの場合、主にゆだねられていないときである。私たちの魂を主におゆだねしよう。
* <結論>*主は聖霊によってきよめのわざを私たちのうちになしてくださる。もう一度光を照らしていただき、心の中を探っていただこう。そして、ここをきよめていただきたいという思いをもって、きよめのために魂を明け渡そう。(A.S.S.)

 

4月 3日の礼拝説教要旨

『聖霊と火とのバプテスマ』マタイ3章11,12節)2005、04、03(聖霊待望礼拝メッセージⅠ)
* 今朝から5月15日のペンテコステまでは「聖霊待望節期」である。途中に野外礼拝が入るが、聖霊の問題を取り上げながらこの節期を過ごしたい。おもに福音書から題目を取るが、今年も聖霊の問題で、私たちの理解を一歩前進させたい。
Ⅰ イースターを越えて
①生きておられる主。
* 主が復活されて、二度と埋葬されなかったことは、今も生きておられるということである。復活から40日目に、弟子たちの目の前で天に上って行かれた。天では年齢はない。主は今も生きておられて、私たちとともおられ、見守ってくださっている。
②永遠のいのちの保障。
* 十字架と復活と昇天を通して、主は地上と死と天との三つの世界を通過された。サタンは肉体の生を知らないから、こうしたことはイエス様だけである。この方が私たちに永遠のいのちを約束してくださっている。これ以上の保障はほかにない。
③「いつまでも」
* いよいよ天に帰って行かれるときの、「世の終りまで」同行されるとの約束は、復活によって可能となった。これは事実であって、あとは私たちがそれを信じ、臨在の意識を開発することである。訓練すれば主の臨在を感覚にまで取り入れることが出来る。
Ⅱ イエスが来られた理由
①人間の行き詰まり。
* 人生は行き詰まる。人類の歴史はやがて大きな壁に遭遇する。発展は突然に空虚と化す。こうしたことが初めから定まっていたからこそ、御父の御心の中で救い主の派遣が決意された。こうして世に遣わされたのが主イエス・キリストであった。
②根強い不信。
* 主がデビューされたとき、最初群衆は歓迎した。しかしそれは表面的でしかなかった。支配階級は根強い不信を持って救い主を迎え、現状を脅かすとの判断で、拒否した。ついには十字架につけることで、人の神への反逆心をあらわにする結果となった。
③神との関係の緊急課題。
* 人は自分の人生からしか世界を見ることができない。なぜ苦しみが、なぜ悲しみが、なぜ災難が、なぜ不公平がと言う。しかし十字架はもっと根底に、神と人との間に関係の破綻があったことを明らかにした。これを解決するための復活であった。
Ⅲ ヨハネの紹介状
①ヨハネ自身との対比。
* 人の姿で来られたなら、誰がその方を神の子と知ることができるか。そのために備えられたのがバプテスマのヨハネであった。彼は「聖霊と火とのバプテスマをお授けになる」として、イエスを世に紹介した。これは大いに人々の注意を向けさせた。
②聖霊と火とのバプテスマ。
* ヨハネのバプテスマはしるしであるが、悔い改めてイエスを信じるとき、魂に神の業がなされる。人の中の神への反逆心は、火で焼き尽くされるようにして清められ、聖霊がその心の中にはいられる。復活の主だけがこのことを成し遂げることが出来る。
③すべての人が求めるべきもの。
* 人は本当のところ自分が何を求めているかを知らない。しかし不足を感じている。十字架が明らかにしたのは、神との和解であった。反逆心が焼かれることであった。神のいのちが注がれることであった。それは主が復活されてはじめて可能となった。
* <結論>*天の父はすべてをご存知で事を進められた。復活は人間の問題をすべて解決した。私たちがなすべきことは、御父が約束された聖霊を受けているかである。今年の聖霊待望節期を、主に対する燃える心を持って過ごしたいと思う。(A.S.S.)

 

3月27日の礼拝説教要旨

『ヨナよりもまさった者』マタイ12章38~42節)    2005、03、27(イースター礼拝メッセージ)
* 今年もイースターを迎える。心から喜びたい。時代はこれからますます暗くなることであろう。しかし復活の主は今は天におられて、歴史が行き詰まったそのとき、天から来られることを信じられるのが、このイースターであることを心して覚えたい。
Ⅰ 「預言者ヨナのしるし」
①不信の時代はしるしを求める。
* 「姦淫の時代」とは、キリストを信じようとしない時代、民族、人々のこと。五感に感じられるしるしを求める人々のこと。主はそうしたものを求めることこそ「不信」の表れであって、もし真実に求めるなら、キリストが救い主であるしるしはもう充分にある。
②「三日三晩大魚の腹の中」。
* ヨナは紀元前8世紀の預言者で、ニネベに遣わされた。神の派遣命令を聞いたとき、預言者はこれを嫌って、タルシシュに逃れようとしたが、大魚に飲まれた。ここから生還してニネベに行き説教したことがかえって功を奏し人々は即座に悔い改めた。
③「死人の中からの甦り」
* ヨナが大魚の腹の中にいたことは、キリストが土(墓)の中から復活したことのしるしとなった。ヨナが大魚の腹から出てきたことがニネベの人々にしるしとなったように、キリストは復活によって、人々の救い主であり「いのちの君」であるしるしとなる。
Ⅱ 「ヨナよりもまさった者」
①「神の国は来ている」:28
* ヨナは多くの人々に、しかも異邦人に、大きな影響を与えた預言者の一人である。主は「御霊の力によって悪霊を追い出し」ご自身がメシヤであることのしるしとされた。それでも当時の指導者たちは主を受け入れ、メシヤとして迎えることをしなかった。
②ニネベの人々の証言。
* ヨナの説教で悔い改めたニネベの人々にとって、これは「不信」と映る。ユダヤ人たちは、ニネベの人々が見たしるし以上のしるしを見ていながら、信じようとしなかった。現在はそれ以上にイエスのすばらしさは明らかなのに、人々は信じようとしない。
③南の女王の証言。
* さらにソロモンの知恵を聞くためにはるばるやってきた南の女王は、その求める熱心さのゆえに、ユダヤ人をさばくことになる。今の時代もほとんど見えないものを求める情熱がない。こうした状況では、この人々にさばかれても弁明の余地がない。
Ⅲ 最終のしるし
①キリストの復活以上のしるしはない。
* 主が言われたことは、やがて主は十字架を通り、死人の中から復活される。これで主イエスがメシヤであることは決定する。もうこれ以上のしるしはない。世界中でイースターが祝われていることは、主キリストが救い主であることの最終的なしるしである。
②罪人を悔い改めに導く力。
* 復活の主は今も生きておられて、真実に求める人にご自分を現してくださる。主と出会った人はその光によって心を見せられる。この方の前には悔い改める以外にない。これが、主は今も生きて働いておられることの動かすことの出来ないしるしである。
③信じる者を生まれ変わらせる力。
* この生きて働いておられる方の前に、へりくだるなら、主は直ちに罪の赦しをくださり、御霊によるいのちを注いでくださる。こうして主を信じる者たちは、主が復活されて確かに今も生きておられることを確信し、イースターを心から祝うことが出来る。
* <結論>*主の時代と同じように、私たちも不信の時代に生きている。だから主が復活された救い主であることを、心一杯に現したいと思う。「主はよみがえられた。」私たちの信仰の告白として、よみがえりの主を証ししたいと思う。(A.S.S.)

 

3月20日の礼拝説教要旨

『61年目の出発』 Ⅰサムエル2章1~11節)2005、03、20(年会報告礼拝メッセージ)
* 今朝は「年会報告礼拝」とともに、棕櫚の聖日でもある。この二つのことを心に留めながら、礼拝のときを過したい。60といえば還暦であるが、群れの歩みは今、過渡期を迎えている。帯を締めなおして、再出発の時として心ぞなえがしたい。
Ⅰ 60周年記念年会
①60年の回顧。
* 「教団を導いた指導者たち」をCDで発表したように、年会ではこの60年の回顧が行われた。創設期に強力な指導者が与えられたことは、特記すべきことである。一般の歴史には残らないだろうが、福音の進展では大きく寄与したことは確かである。
②組織の見直し。
* 創設者に機能した組織は、今ではいろいろと不備を露呈している。組織改革委員会が立てられて、取り組みが行われているが、その全貌はまだ見えていない。ここをしっかりと装備しなければ、群れとして前進することは困難なこともまた確かである。
③展望。
* これからどこへ進むかははっきりしている。創設から「聖と宣」という旗印が掲げられたが、この旗はまだ色あせていない。なぜなら、これこそが昇天前に主が弟子たちに託された使命であり、代々の教会が受け継がなければならないものだから。
Ⅱ 60年を振り返って見て
①モーセのような偉大な指導者。
* 初代総理蔦田先生は、稀に見る逸材で、この人がいれば組織も必要でなかったといっても言い過ぎではない。何でもやれたし何でもしてきた。最初の40年間の統計は、救世軍の最初の40年とほぼ同じで、日本のキリスト教会では記録的である。
②ヨシュアのような後継者。
* 朝比奈先生は3代目であるが、丁度ヨシュアのように、続く世代を導いた。開拓、本部の進出、神学院の拡張と精力的にこなしてきた。群れの基礎はこうして確立してきた。それだけに、内部的にはいろいろと問題を抱えることの多い20年であった。
③続く士師たちの時代。
* 続く10数年に、藤本先生、河村先生、竿代信和先生と三人の器が立てられたが、集団指導というかたちを取ったため、組織の不備が目立ったといえる。何とか整備をして、今の時代に奉仕のできる群れとして、立て上げていかなければならない。
Ⅲ 「ハンナ」の歌に学ぶ
①救いの感謝の歌。
* ハンナは家族の中のトラブルから、悩みをって主の前に出て祈り、子どもが授かった。彼女にとってこれは耐え難い苦しみからの救いであって、憂いと涙は喜びに変わった。「私の心は主を誇り」と言って、神への心一杯を感謝を歌にしたものである。
②逆転の神への賛美。
* 優越感のペニンナの前で、もし主のご干渉がなかったなら。しかし彼女が祈ったとき、主は御手を伸べられて、ハンナの立場を逆転された。これは聖書の重要なモチーフとなっている。神がちょっと指を動かすだけで、人の誇り高ぶりは吹っ飛んでしまう。
③信仰と献身の歌。
* ハンナはこの神の救いに対し何もしないではいられなかった。彼女はわが子サムエルを主の働きのためにささげた。サムエル記の物語はここから始まる。神が新しい時代を切り開くためには人が必要であったが、サムエルはそのために立てられた。
* <結論>*次の時代を切り開くために、まずしなければならないことは祈りである。組織はいらないというのではない。しかし祈りを忘れてはならない。これからの時代、どんな困難が待ち受けているか分からない。が私たちには祈りがある。(A.S.S.)

 

3月6日の礼拝説教要旨

『ともに行かれる神』(創世記46章1~7節) 2005、03、06(年会送別礼拝メッセージ)
* 今朝は年会前の聖餐式を予定している。このことを踏まえて、今朝のメッセージのために祈って与えられたのがこのメッセージである。ヤコブへの神の約束から、年会前の心を整えたいと願っている。また聖餐が恵みに満ちたものとなるように。
Ⅰ ヤコブの経験
①不安と祈り。
ベエル・シェバはカナンの最南端である。ヤコブは約束の地を離れる時、不安を感じた。神がヤコブを愛されたのは、彼の性格ではなく、不安のとき祈りへと向かう習性である。切なる祈りのとき、神は必ずよいことばを語られる。ヤコブはそれを聞いた。
②聞こえた神の声。
* ヤコブは祈り心の中で神の声を聞いた。「恐れるな」とヨセフによって生涯を全うすることの二つであった。信仰者は神に心を向けさえすれば、神は語られる。ヤコブの経験は私たちの経験でもある。神はヤコブ゙にだけ特別なことをされたのではない。
③エジプトへの出発。
* これでヤコブは迷う思いを捨てた。一族を励ましてエジプトへと向かった。彼はエジプトで何が起こるかのすべてを知ったわけではない。彼は神の声を聞いて、神が善を成してくださることを信じて旅立った。これが信仰の確信であり行動である。
Ⅱ イスラエルについての約束
①「大いなる国民」
* 「大いなる」は神の目から見ての意味である。人は神の目から見て「神に仕える」と「神に逆らう」の二つがある。どんなに自分を大きくし、人にうらやましがられても、神に捨てられた者は偉大でも何でもない。しかしヤコブの子孫は「大いなる国民」となる。
②「いっしょに」
* エジプトがどんな所か分からない。ヤコブにとって必要なのは「神の同行」であった。神がともにいてくだされば、どんな保証にもまさる。ヤコブの生涯は神の同行を確認しながらであった。信仰がこの一点に集中できたら、どんなに幸いなことか。
③「再び導き上る」
* しかし神はアブラハムへの約束をお忘れになったわけではない。カナンは約束の地である。「再び導き上る」は神の真実を物語る。どこまでもお約束を貫かれる。神が真実であられるから、信仰者の信仰は、確かなものといえるのである。
Ⅲ 年会を前にして。
①年会の意味を考える。
* 信仰者が団体を組織することに意味があるのか。これは真面目なクリスチャンからよく問われる質問である。神に仕えることと神の同行が確かなら、群れを形成することに大いに意味がある。年会はこれを確かめるためのベエルシェバであると言える。
②神の同行を確認する。
* 今年は創立60周年の記念の年である。統計は群れが過渡期に来ていることを示している。何の方策を取り持つよりも、ヤコブのようにまず神の前に出る。そして神の同行と導きを求める。それをしっかりとすることが、何よりも大切なことである。
③神に仕える。
* 私たちが教会に属し教団に属しているのは、ともに信仰を一つにして神に仕えるためである。今年、いや21世紀が神の御業が進む世紀であることを、切に切に願いながら、この年会が神にささげられた年会であることを願ってやまない。
* <結論>*信仰生活には「節目」がある。年会は教団と言う群れにとっての節目である。この節目で神の声を聞く。そして「ともに行かれる神」を確かめて、信仰と献身を新しくして、「大いなる群れ」としての道を踏みしめて行きたいと願っている。(A.S.S.)

 

2月27日の礼拝説教要旨

『終末に生きるクリスチャン』Ⅰコリント7章29~35節)2005、02、27(コリント人への手紙講解・№26)
* 競技の世界にも、ラストスパークというのがある。おそらくクリスチャン生涯にもこのことは言える。時がないという思いは、ある種の緊張感のある生き方となる。クリスチャンがそのように生きることができるなら、より主のために生きられるのではないか。
Ⅰ 覚めた目
①「今」という時を認識する。
* パウロは「今からは」と言う。「今までは」この世がすべてと思っていた。しかし、主を知ったからには、そうした生き方を捨てなければならない。なぜなら、「時は縮まっている」からである。クリスチャンの目はもうひとつの世界を見ているはずである。
②一時的なことに心を用いすぎないこと。
* 「ように」という語が5回出てくる。妻、泣く、喜ぶ、買う、世の富はみな一時的なものである。主が「どうしても必要なもの」はわずかだと言われた。永遠に比べたら、これらのものは大したことがないとしたら、「覚めた目」もクリスチャンには必要である。
③この世の有様は過ぎ去る。
* 「有様」は五感で感じ取る世界である。これは神がお造りになった世界の一部であり、価値から言うと低いほうである。それらは、永遠とは程遠く「過ぎ去る」。今は現実としてみているが、第二幕が始まれば、すーっと去っていくのが今の世界である。
Ⅱ 心を分けない
①独身の男の場合。
* 自制できることが前提ではあるが、独身の場合、妻のことで心を用いることがないだけ、主に打ち込むことができる。これは単純に見ての利点である。確かに、後にエペソの手紙に書いているように、結婚は崇高であるが、単純に見た場合はこうなる。
②結婚した男の場合。
* 現実に、結婚が主に仕えることを不可能にすることがある。夫も妻も献身してこそ、奉仕の道は可能である。妻の同意が必要だとすれば、確率は、主に仕えたいと思っても50%は、駄目になることがある。心は分けることができないからである。
③女性の場合。
* 女性の場合も男性と事情は同じである。独身女性は主に仕えることに専念できるが、結婚している場合はそれは難しい。同じ足かせなら逆手にとって、徹底して夫、または妻の救いのために、専念する。これがふさわしい生き方ではないか。
Ⅲ 秩序ある生活
①益のため。
* パウロは「ことばが独り歩き」することを知っていた。良かれと思って言ったことが、クリスチャン生活を害することになるとしたら、パウロの意図とは反対である。結婚するもよししないもよし。要はこれらのことばは、クリスチャンに益をもたらすためである。
②束縛ではない。
* 益をもたらさないばかりか、「ことばが独り歩き」が、クリスチャン生活を重苦しい拘束したものとなることがある。それはパウロの望まないことである。パウロは自分の忠告が、バランスよく受け止められて、秩序ある生活となることを望んでいる。
③ひたすら主に奉仕するため。
* パウロは喜んで、嬉々として主に仕えるクリスチャン像を描いている。パウロにとって主に仕えるとはまことにスリリングで、ダイナミックな生涯であった。すべての人が自分と同じでないことを知りながら、あえて自分と同じように生きることを望んだ。
<結論>*今朝の忠告は確かにバランス感覚と常識ある時代感覚で受け止めなければならない。結婚している人もしていない人も、どうしたらパウロのような生き方ができるか。今朝は自分に当てはめてこのことを考えたいと思う。(A.S.S.)

 

2月20日の礼拝説教要旨

『神の前に全き者であれ』創世記17章1~8節)2005、02、20(第三聖日聖別礼拝メッセージ)
* 第三聖日であるので、アブラハムの心の中を探索しながら、おのおの自分の心をもサーチしたいと思う。信仰生活にはしばしば軌道修正が必要である。「全き者」の完成図は御心の中にある。その御心を探りながら、その御心に沿う者となることを言う。
Ⅰ 正義感からの旅立ち
①ウルの町の状況。
* 考古学者によって、この近辺は発掘が進んでいる。それによると、この地域の特徴は高度の文明、絶えざる都市間の抗争、強がりから来る傲慢と偶像崇拝、それに性的に乱れた風潮であった。そこには人間の賢さと愚かさが混在した文明があった。
②アブラハムの正義感。
* 大抵の人は苦難の中から神を求める。まれに正義感から神を求める人がいる。もともと宗教心のある人で、アブラハムはそうした人物であった。彼はウルの町の実情に耐えられなかった。こうしたところに真実があるとはとても思えなかった。
③神の召しに従って。
* 彼は求める心を持って悶々としていたとき、神の声を聞いた。神はアブラハムの求める心に応えて、彼に語られた。だから彼は聞き逃さなかった。それは今まで彼が知らなかった神であったが、確かに自分が求めていた神であったと直感し従った。
Ⅱ 襲い来るトラブル
①環境から来るトラブル。
* 約束の地カナンに入った途端、そこは飢饉であった。やむなく彼は自分の判断でエジプトに下ったが、妻のことで身の危険を感じ、嘘をついた。神の憐れみで一難が去ると、今度は甥のロトと同居が難しくなった。この時彼は崇高な精神を発揮した。
②人間関係から来るトラブル。
* 彼から離れたロトが、王たちの戦いに巻き込まれたとの報を受けた。彼は早速家の子を引き連れて救出に向かった。カナンはトラブル続きであった。彼がこのことで悩み苦しんでいる時、夢の中で暗い闇が襲い、子孫の苦境の幻を見せられた。
③自分に抱えたトラブル。
* 神の約束はカナンを約束の地として与えることと、子孫が増え広がることであったが、サラとの間には子がなかった。このことで妻から責められ、アブラハムは妻の奴隷ハガルによって、子を設けた。このことで13年、空しい時を過ごすことになった。
Ⅲ 「全き者」へ
①露呈した不完全さ。
* アブラハムは神に従えば、自分の良い面が芽を吹き花開き、自分の正義感が正しかったことが証明されると思った。ところが神とともに歩んだとき、自分が全く不完全な人間であることを見、愕然とした。神に従うとは、こういうこととは予想もしなかった。
②正義感の挫折。
* アブラハムはウルの町の腐敗に耐えられなかった。そうした時に神の声を聞いた。神は自分の正義感を認めてくれたと思った。ところが、人を責めていた自分の中に、その耐えられなかった腐敗があった。もう神に見捨てられたという思いで絶望した。
③神への全き信頼の態度。
* 13年ぶりに「全能の神」としての語りかけがあった。「全き者であれ」彼の心には自分の無力が噴出した。また「もし全くなれるなら」という思いもあった。神に信頼していく以外にない。神は私を完全な者としてくださる。これがこの時の彼の信仰であった。
<結論>*善悪の基準、信仰者としての完成図、それはみな、御心の中にある。自分で自分の人生の舵取りをする限り完成はない。私たちが信じる神が「全能の神「であることを知ったとき、私たちは「全き」へと、進んでいくことができる。(A.S.S.)

 

2月13日の礼拝説教要旨

『結婚についての意見』Ⅰコリント7章25~29節)2005、02、13(コリント人への手紙講解・№25)
* クリスチャン同士でも「意見の違い」がある。これを私たちはどう受け止めどう判断したらいいか。今朝の学びはこの辺の整理に重要と考えられる。意見は絶対ではない。しかし、私たちは祈り、みことばを学び、確りとした意見を持つことは大切である。
Ⅰ パウロの意見の前提
①主の具体的な指示はない。
* 主は生活の具体的な細部に至るまでの指示はされなかった。聖書は「原則」を述べている。具体的な箇所は、時代背景を考えて解釈しなければならない。判断は「状況」によるのではく、祈りと心の中の光による。何が御心かは真剣に考えること。
②現在の危急の時。
* パウロは自分の生存中か近いうちに、再臨があると考えていた。こう考えたからといって間違いではない。歴代のクリスチャンたちも、再臨に対しては緊張感を持って生活していた。主は、いつでも目覚めて、準備をしておくようにと教えておられる。
③自分への信頼に応えて。
* パウロは、意見は信頼関係の中でしか効果がないと考えた。自分がコリントの信者に信頼されているという前提でしか、意見は述べられない。教会、家庭、友人の間でも、まず信頼関係を築く。主との関係と人の関係、この両方を確立する必要がある。
Ⅱ パウロの意見
①現状がよい。
* 独身、結婚にかかわらず、現状がよい、とパウロは考えた。妻帯者は離婚を考えてはならないし、独身者は、むやみに結婚を望み、あせってはならない。この問題は現状を受け入れ、祈り、主の摂理的な導きを求めることが良いのではないか。
②結婚は罪ではない。
* しかし、結婚を願望し、結婚したからと言って、それが罪であると思ってはならない。特に処女の場合、この迷いが大きかったようである。結婚について罪悪感を持つのは不健康である。あくまでも主に仕えるという観点からの献身の態度である。
③苦難を招く。
* 「苦難を招く」とパウロはいうが、これはクリスチャンとして生きることと、この世との狭間で悩むことが多くなる、と言う意味で解釈すべきと思う。確かに「世的な悩み」が多くなる。二人で祈りあって、これを克服してからでないと、主に仕えることは難しい。
Ⅲ 時は縮まっている(三つの考え方)。
①人生は短い。
* パウロはクリスチャンに課せられた使命の大きさに圧倒されていた。この世のことにかかわっている暇はないと考えていた。主に仕えて一生懸命生きてきて、気がついたらもう60の坂を越えていた。「人生は短い」これは誰もが持つ感想である。
②再臨は近い。
* 「再臨が近い」と言う考え方がある。主は再臨の時期を明示されなかった。このことが初代のクリスチャンたちに緊張感を与えていた。21世紀の現在、主の再臨はいよいよ現実味を帯びてきている。私たちも「主は近い」と考えるべきと思う。
③結婚関係は一時的。
* 天国に行けば、御使いのようになり、「」は解消される。結婚はこの世だけのことである。子孫と情緒の安定とクリスチャン・ホーム形成の信仰の継承に意味があったが、それにしても結婚生活は苦難が多すぎる、とパウロは考えたようである。
<結論>*この世に生きるとは、罪から救われ、信仰の養いを受け、主に仕え、天を望み、まだ救われていない人々を導くことのためにある。パウロはこのように考えていた。そこから出て来た意見であることを、熟慮したいと思う。(A.S.S.)

 

2月6日の第一聖日伝道礼拝説教要旨

『心 を 考 え る』マタイ5章8節)2005、02、06(第一聖日伝道礼拝メッセージ)
* 今年は、「山の上の説教」を中心に、第一伝道礼拝を持っていけたらと願っている。求道中の方は第一聖日を意識していただければ幸いである。聖書の教えを理解し、それを心に受け入れて行くことが、求道者として神へと近づく道である。
Ⅰ 「心について」の最近事情
①統計心理学からの報告。
* 最近の心理学は、統計学の手法を取り入れることで、長足の進歩を遂げるようになった。感情が脳内物質によって左右されていることも解明されるようになった。今まで抱えてきた人間の精神的な問題は、早晩解決されるという期待も膨らんできた。
②精神物質一元論への回帰。
* 精神と物質は別の原理とする二元論はデカルトに始まった。最近では精神を物質の振る舞いから来る現象と捉える傾向が一段と強まっている。科学が進歩すれば、精神も物質レベルで説明できる。これらを精神病、犯罪の防止に役立てようとする。
③宗教排除の流れ。
* 宗教経験の記録が、異常心理学の研究材料となっている。トラウマの正体が妄想であり、宗教感情と酷似しているとする説もある。流れは、宗教家と精神科医の住み分けではなく、人間精神の最深部も、医学によって扱われるべきという傾向にある。
Ⅱ 「心」という窓
①神は心を見る。
* 神との関係において、は重要な位置にある。神は心を見られる。心に語りかけられる。主イエスは人々の心の戸を叩いておられる方として描かれている。人々が心を忘れている状態から、目覚めて「我に返る」ことを、今も待っておられる。
②心は神を見る窓。
* 聖書は、心の最深部を「神の宮」と見ている。ほとんどの場合、ここに神は不在である。しかし、神不在ではあっても、ここに神への通路がある。もし人が求道の心を持ち、神を求める思いを持つなら、謙って神に会う備えをするなら、神を見ることができる。
③神が見えない心。
* 主は「二人の主人に仕えることはできない」と言われた。人々の心には神以上に心を占有するものがいくらでもある。心はあれもこれもと散らかった部屋のようになっている。一つでない心、こうした汚れた心では、きよい正しい神を見ることはできない。
Ⅲ 心を清める
①自分で治めるのか。
* 心ほど御し難いものはない、というのが大方の経験である。自分の性格に不満があっても、それを直すことは不可能に近い。神不在の心は、ある意味で無政府状態である。人の目の梁を見ても、自分の目の塵を見ようとしないのが人の常である。
②神にゆだねるのか。
* 体の不具合に気づけば、すぐ医者に行こうとするのに、心の汚れや異常に気ついても、神を求めようとしないのはなぜか。主イエスは心の医者以上のお方、救い主である。人の窮状をご存知で、救いの手を伸べておられる。主にゆだねようではないか。
③神が清めてくださる。
* 心を明けるなら、神は即座にきてくださって、心の王座に座ってくださる。心の権限をお渡しするなら、たちまちのうちに心を整理整頓し、清めてくださる。心の清い者は幸いである。自分の心に神がおられ、王となってくださるのを見るからである。
<結論>*ルカ15章の放蕩息子は、財産を手にして慢心したが、気づいたら豚小屋にいた。「私は一体何をしているのだ。」ようやく本心に帰ったとき、父の許に帰ろうとした。このように心に神への通路がある。神の御許へ帰ろう。(A.S.S.)

 

1月30日の教会総会奨励礼拝説教要旨

『信仰の戦いを戦い』 (Ⅰテモテ6章11~16節)2005、01、30(教会総会奨励礼拝メッセージ)
* 「神の人よ」とテモテは呼びかけられている。信仰を持って地上にとどまることは、決して楽なことではない。まさに戦いである。その戦いが熾烈であればあるほど、栄誉も大きいことを知るべきである。今朝、信仰の戦いのための励ましを得たいと思う。
Ⅰ 【何のための戦いか】
①避けなければならないもの。
* 「これらのこと」とは、利得や金銭を愛すること。「金銭」は「世の思い」の象徴である。世の思いに満たされている限り、魂に渇きをおぼえることはない。人は自分がほしいと思うものを切に求める。神の人は、「金銭を愛すること」を避けなければならない。
②求めるべきもの。
* 金銭を愛することを捨て去るなら、激しい吸引力が起こり、天にあるものを求めるようになる。「正しさ」、「敬虔」などなどは、心に真空をつくって吸い取るのでなければなければならない。「求めよ」これが信仰が生かされるただ一つの道である。
③獲得のために。
* 信仰者は「永遠のいのち」を獲得するために召されたのである。このために信仰者は互いに励ましあう存在である。イエス・キリストがいのちを捨てて、提供してくださった賜物である。これらは神から与えられるものであるが、また獲得すべきものである。
Ⅱ 【どのように戦うか】
①勇敢に。
* めだかが川の流れに逆らって遡上するときには、激しく鰓を動かしている。信仰者はこの世の価値観や求めと逆の方向に向かっているのだから、ただ流れているだけでは何も起こらない。強い決心を持って恐れず、進むことが求められる。
②りっぱな告白を持って。
* 信仰的な行動を取ろうとすれば、「どうして」という質問がくる。すなわち、告白が求められる。そのときはいつでもきちっと告白しなければならない。でなければ神も人々も納得しないであろう。告白はこの世の流れに立ち向かうためにも重要である。
③非難されない。
* 信仰者の中には自分の良心を大事にするあまり、人々の非難をものともしない人々がいる。神が求めておられるのは、信仰者の行動が、人々を感嘆させることである。妥協はかえって信仰者への軽蔑を生むが、良識は人々を納得させるものである。
Ⅲ 【いつまでなのか】
①良しとする時
* 時は父なる神の手の中で管理されている。誰もこれを犯すことは出来ない。主はそのときは「盗人のように来る」といわれた。いつそのときが来るか誰にも分からない。私たちに必要なのは、今の戦いを見守ってくださる神を信じて進むことである。
②現われの時。
* そのときは、何もかもが明らかとなるときであり、逆転のときである。それは「あっと驚くとき」である。世の人々にとっては考えたこともないことが起こるときである。しかしもう「知らなかった」では済まされない。悔しがっても始まらない歯軋りのときである。
③誉れのとき。
* その時、目もくらむような神の真実が明らかとなる。文学では嘲笑され、政治では無視され、経済では邪魔扱いにされていた神が、実は偉大な方であったと「誉れ」のときとなる。神の誉れとともに、信仰もその時明らかとなる。その時まで戦いは続く。
<結論>*使徒ヨハネは捕らえられ迫害者の前に立ったとき、信仰を捨てることを求められた。その時言った。主キリストは私に良いことだけをしてくださった。どうしてこの方を裏切ることが出来ようか、と。これこそが信仰の戦いである。(A.S.S.)

1月23日の教会総会準備礼拝説教要旨

『敬虔のための鍛錬』 (Ⅰテモテ4章6~16節)2005、01、23(教会総会奨励礼拝拝メッセージⅢ)→
* 川の水が上流から下流へと流れるように、キリストへの考察は奉仕へと導かれる。キリスト者には奉仕の場が与えられている。たとえ病床であっても、祈りの奉仕が与えらている。奉仕をこのように特権と受け取りたい。そのためには「鍛錬」が必要となる。
Ⅰ 鍛錬の必要なこと。
①神に心を向ける。
* パウロは「キリスト・イエスの立派な奉仕者」になるよう勧める。それには、敬虔の鍛錬が必要である。朝起きたときから床に就くまで、心を神に向けるよう、意志を働かせることが大切である。漫然、雑然、定まりがないことは、敬虔に役立たない。
②感情の制御。
* 「感情の制御の必要」は、私たちの経験である。心とは関係のない話「世間話」は、感情の遊戯となりやすい。なぜなら、意志の制御を受けない感情は、御心を実行することがないからである。敬虔とは常に、意志を前面に立てることからはじまる。
③このように自分を律すること。
* 鍛錬とは「集中」であり、このためには自分を律することが必要である。このために、信仰者たちは、朝起きたときまず神の前に出る。そこで自分の心の諸要素を束ねて「主に用いていただくよう」差し出す。主が私の王であるときのみ、心は自由となる。
Ⅱ 信者の模範となること。
①キリストに望みを置くこと。
* 信仰者は川にたとえることができる。山の頂から流れてくる水を海に流すように、人々への奉仕をするためには、まず「神に望みを」おく必要がある。資源なしに奉仕をすることはできない。必要はみな神から来る。信仰者はよき管でなければならない。
②人々には威厳を保つこと。
* ただでさえ人々は「心、宗教、神、信仰」などを無視する傾向にある。人々は人間の顔しか見ようとしない。人々に注目してもらうためには、「威厳」がなければならない。クリスチャンが無視できない状況になったとき、彼らは私たちの言うことを聞く。
③信仰の友に気を配ること。
* クリスチャンの間でも、ことばが効果を発揮するのは実行が伴ったときである。この点は説教者はいつも自戒しなければならない。語っていれば何かができると考えてはならない。祈りに始まって親切の行為まで、みな模範から始まるものである。
Ⅲ 奉仕を実践すること。
①みことばの奉仕。
* 教会の奉仕で中心を占めるのは、「みことばの奉仕」である。語る資格のある者が、威厳を持って語るなら、それは教会を建てあげる大きな力を発揮する。聖書の朗読とその解説が、まず群れの全員に届けられるように心を配る必要がある。
②聖霊の賜物による奉仕。
* 次に「聖霊の賜物」とあるが、クリスチャンの品性と教会の雰囲気に寄与するものはみな「聖霊の賜物」。である。クリスチャンはみな何か賜物が与えられている。みな同じではない。この認識に立って、人にでなく、神の前に奉仕することが大切である。
③進歩と継続。
* 奉仕においては気分に任せてはならない。意志を働かせなければならない。ここが「敬虔のための鍛錬」である。自分で自分の心が自由にならない。だから、自分をキリストにささげる必要がある。進歩と継続を目指すなら、鍛錬は必要で可能である。
<結論>*ある意味ではクリスチャンはオリンピック選手にたとえられる。目標が与えられる。それに向かって自分を律する。奉仕の中で進歩し、進歩と継続の中で、ますます鍛錬されていく。やがて神の前に立つとき、栄冠が待っている。(A.S.S.)

 

1月16日の教会総会準備礼拝説教要旨

『すべての人のために』 (Ⅰテモテ2章1~7節)2005、01、16(教会総会準備礼拝メッセージⅡ)→
* 「すべて」は決して大げさなことではない。神の御心の大きさに照らせば当然である。今朝は、私たちの心をこの標準にまで引き上げることを目指している。心の広さは体力と同じで、意志と情熱と使命があれば、どんどん広がっていくものである。
Ⅰ すべての人のための祈り
①すべての人のために。
* 「願い、祈り、とりなし、感謝」は、祈りのいろいろな方面をいう。この中の「とりなし」は、人のための祈りを言う。自分のためとともに、他の人のために祈ることが求められている。私たちの祈りが家族のため、すべての人のためにと広がっていくように。
②高い地位にある人のために。
* 為政者のために祈ることは、世の平和のために必要である。国に良い政治が行われることは、神も願っておられることであるが、これらは祈りにかかっている。ボンフェッファーが、ドイツの教会がこの祈りを怠ったことを指摘したことは有名である。
③クリスチャンたちのために。
世の秩序がクリスチャンの祈りにかかっているのなら、クリスチャンたちの信仰と奉仕のために祈ることはさらに重要である。信仰者の祈りや意見がこの世でも認められるためには「威厳」を持つ必要がある。そのために互い祈りあうことが求められる。
Ⅱ すべての人のための救い
①神の願い。
* 「神はすべての人が救われることを願っておられる。」信仰者がこの確信に立つことは重要である。私たちの経験や感覚は、「人はそう簡単に救われない。」となる。これが失望へと追い込んでいる。神の心は爛々と燃えていることをもっと確信したい。
②唯一の仲介者。
* 人が救われないのは、「キリストとのドッキング」が、うまく行かないことから来ている。丁度、鍵が合わなければ開かないように、神と人との仲介者はただひとり、人はこの方と出会わなければならない。私たちの祈りはここに集中しなければならない。
③贖いの代価。
* 人が救われるためには「代価」が必要であるが、それはすでに支払われている。キリストの御許に来る準備は、ありのままになることである。多くの人は、今のままでは神の前に出られない、と思っている。このためにも祈らなければならない。
Ⅲ すべての人への宣教
①宣教の目的。
* パウロは、神がすべての人のために救いの道を開いてくださったことを証しするために、と言っている。もう救い主は来られた。贖いの代価は支払われている。ただキリストの御許に来るだけで救われる。これをどんな人にもお伝えするのが目的である。
②宣教の動機。
* パウロは、このために「使徒に任じられた」と言っているが、このことは私たちにも言える。神は私たちをも「宣教者」に任じておられる。この任務を果たすためには、必要も神から来る。何が足りないか。知識か、情熱か、費用か。必要は神に求めよう。
③宣教の場。
* パウロにとって、宣教の場は「異邦人」であった。私たちにとっては、まず家族、次に隣人、そして神が出会わせてくださる方々。地の果てのためには献金を持って応えることができるかもしれない。しかし私たちの第一の場は、まず、すぐ近くである。
<結論>*目標は「すべての人」であるが、スタートは足元の第一歩からである。できることからはじめなければ何もはじまらない。今年はまず家族の救いのために、私たちの力の限りを尽くしたい。まず、祈ることからはじめよう。(A.S.S.)

 

1月9日の教会総会準備礼拝説教要旨

『委ねられた福音』Ⅰテモテ1章3~11節)2005、01、09(教会総会準備礼拝メッセージ)→
* 新年を迎えると教会総会、これは毎年のことであるが、このとき、私たちはいつも教会の使命について考えてきた。今年はテモテの手紙から、この主題について掘り下げていきたいと願っている。そして私たちのタラントを尽くして主に仕えたい。
Ⅰ 議論を越えた福音
①議論は、神の救いの計画を実現しない。
* 「空想話と系図」とは、聖書を真実に学ぼうとする者が陥りやすい「わき道」を示している。理性を持って聖書に近づくなら、確かに議論の種はありすぎる。しかし、それはわき道であって無益である。神の救いのご計画を実現することはない。
②議論は、目標を見失う。
* 議論と真実な求道者の疑問は必ずしも同じでない。みことばを理解しようとする心から出る疑問は有益であるが、頭から出てくる議論は、聖書が真に伝えようとする目標にいたることはない。こうした議論に陥らないようにしなければならない。
③議論は、律法を守ることができない。
* 律法は論じることと守ることは別物であるし、人のサイコロジーはこの二つを平気で分けることができる。律法の正しい用法は、律法を無視している者に、そうした間違った状態を明らかにするためのものであって、議論によって守れるようにはなれない。
Ⅱ 栄光の福音
①救いを実現する。
* 神が聖書によって啓示された目標は「救いの実現」である。律法の光は、人の魂の状態を明らかにする。こうして自分の魂の状態を知らされた者は、神が差し出された福音を受け取るために、悔い改めて信仰を働かせなければならない。
②愛を目標とする。
* 福音は「主イエスの十字架の愛の福音」である。これは福音を受け入れた者の心にも愛を根付かせる。信仰はキリストとの愛の関係の始まりである。彼はキリストとのつながりを最も大切なこととする。彼はキリストを求めてやまない。これが愛の根である。
③魂の破綻を修復する。
* 内住のキリストは、彼の魂の修復に取り掛かる。清い心と良心は、御心を行おうとする動機となり、自分の心の無力を知れば知るほど、いっそう神の憐れみを求める。その求めに応じて、キリストの御霊は働かれる。福音はこのように彼の人格にまで届く。
Ⅲ 委ねられた福音。
①パウロに委ねられた。
* パウロは、福音は人の魂の心底から改変する力を持っており、自分はそうした福音を主より委ねられたという。自分がどんなに主に反対した者であったかを回顧しているが、それはかえって神の憐れみの深さ、福音の偉大さを証しするものである。
②テモテに委ねられた。
* パウロは老齢となった今、自分に委ねられた福音を若いテモテにバトンタッチしようとしている。時代は着実に移り変わり、世代交代のときは必ずやって来る。パウロがどんなにがんばっても、ひとりでそれを担うことはできない。これが人の世である。
③すべてのクリスチャンにゆだねられている。
* このことは、すべてのクリスチャンが考えなければならないことである。今の時代は今のクリスチャンにゆだねられている。そして次の時代もやってくる。今年は私たちにゆだねられている。この揺さぶりの時代に、真剣に福音を伝えたい者である。
<結論>*私たちの救いが本物なら、私たちは福音をゆだねられた者である。それが神からのものであるなら、私たちはその任務を果たすことができる。神はその力も与えてくださる。この信仰をもって今年は進んで行きたい。(A.S.S.)

 

1月2日の年頭奨励礼拝説教要旨

『この方こそ待ち望んだ主』 (イザヤ25章)    2005、01、02(年頭奨励礼拝メッセージ)→
* 2005年。私たちは新しい年を迎えるが、クリスチャンにはますます時代を見る目が必要である。これからは人間の行き詰まりが明らかになってくる。人々は真剣に救いを探すようになる。その時、「この方こそ主」と、大胆に言える準備をしておきたい。
Ⅰ 世の終わりのしるし
①着々と進む神のご計画。
* 「不思議なご計画」とは、アッシリヤは征服欲によって、イスラエルは自分を守ろうとして動いているのに、不思議に神の計画がなっていく。人間がそれぞれ思い思いに自分の計画を推し進めているのに、実は神のご計画がなっていくと言うこと。
②人間が築いた文明の挫折。
* 「城壁や宮殿」は、当時の文明の象徴であった。それが戦争や暴動によって次々と廃墟となっていく。人間がやったやったと誇るものが、次々に崩れていく。それはちょうど蟻塚が一足で潰されていくように、人間の文明はまことにはかないものである。
③主キリストとの対面。
* 人の思うとおりに行かないと言う事態は、何か偉大な者を感じないわけにはいかない。イザヤの時代、人々がイスラエルの神に目を向けたように、人々は神に心を向けキリストに、目を向けるようになる。人生は決してキリストを避けては通れない。
Ⅱ 人々が目覚めるとき
①壁に直面したとき。
* 続いてイザヤは、魂が目覚めるときの様子を描写している。一般的には三つのタイプがある。一つは壁に直面したときである。自分の力に頼って生きている者は、いずれ壁にぶつかる。そこに見るのは滅亡へと向かっているあわれな魂である。
人生のむなしさを感じたとき
* 自分の夢を実現しようとしている者は、確かな方向がないのだから、気がついたら堂々巡りをしていることになる。方向がないと言うことは目標がないのと同じであって、むなしい。自分を実現しようとする者はただ目的もなく宇宙に浮遊する魂である。
③自分の心を見たとき。
* 神を持たない者の心はすでに廃墟である。彼はただ外面を繕っているだけである。不落の城壁を築いているつもりであるが、城の中は荒涼とした砂漠である。神が訪ねてきたときには、何処にもお迎えすることのできない自分を発見するだけである。
Ⅲ この方こそ、待ち望んだ主
①宣言する。
* すべてのクリスチャンは、現代に立つ預言者でなければならない。すべての人に救い主が必要である。何処に救いがあるかを探している。「この方こそ主」。真実を求めている人々に対して、救い主を宣言することは、私たちの重要な使命である。
②説明する。
この世の流れに流されている人に対して、川全体を眺められる場所からの光景を説明するためには、たしかに私たちはもっともっと御言葉を学ばなければならない。自分でも学び聖書の学び会にも出席し、御心を深く理解する者になりたい。
③証しする。
* 私たちが日々に祈り、生きておられる主を体験しているなら、「キリストの証人」」としての資格を持つ。この世で証しする難しさは、内容ではなく方法である。これは祈って聖霊さまに導いていただく以外にない。私たちに証しの機会が与えられるように。
<結論>*災害地に駆けつけてボランティアをすることはいいことである。もっと切実なのは、あなたの隣人が神のなさり方に困惑していることである。私たちは彼らに遣わされた預言者である。この任務を忠実に果たすことができるように。(A.S.S.)

 

1月1日の元旦礼拝説教要旨

『主の真実は大盾』詩篇91篇)2005、1、1(元旦礼拝メッセージ)→
* 21世紀は5年目となった。私としては複雑な気持ちでいるが、すべては神の御心である。昨年よりもより緊張を持ってこの年を迎えている。主のおいでまで、あと何年ご奉仕をすればよいのだろうか。今年も打ち込んで主に仕えたいと思う。
Ⅰ 2004年と言う年。
①テロの恐怖。
* 不気味なテロ集団であるアルカイダが。壊滅していないことが判明した。イラクでは日本人もテロの標的にされた年であった。これからも、まだテロの恐怖は続くことであろう。神を信じる者として、ただ怯えているだけでは、何もならない。
②押し寄せる災害。
* 国内外において、災害が続いた年でもあった。いつものことながら、人間が築いた文明が大きな打撃を受けた。財産は一瞬にして流れ去り、いのちのはかないものであることを見た。この世だけの価値観では、もう対処の方法がない。
③混迷する世界。
* スマトラ沖の地震と津波は、世界の混迷を象徴しているように思う。イラクへの自衛隊派遣、北朝鮮の拉致問題、世界の荒波は日本にもいやおうなしに押し寄せてきている。この世には心のよりどころがどこにもないことがはっきりしてきた。
Ⅱ 神は何をなさろうとするのか。
①魂の揺さぶり。
* こうした時、色々な方面から聞くのは「神は黙っておられるのですか」と言う言葉である。神がこの世に安住の地を築こうとしている人間の努力に揺さぶりをかけておられることは確かである。昔のように神は、現代のバベルを混乱させておられる。
②近づいている終わりの日。
* この世は永遠ではないし、人のいのちも永遠ではない。むしろ、永遠のために備えるのが人生である。にもかかわらず、人の心はあまりにもこの世に密着しすぎている。今世界に起こっていることは神の苛立ちのあらわれではないか。
③刈り入れの準備。
* ペンテコステに続いて初代教会では大きな刈り入れがあった。終わりの日の教会にも大きな刈り入れが約束されている。それはもうすぐである、と期待していい。むしろ、そのための心備えをするべきである。魂のぶどう畑が熟そうとしている。
Ⅲ 今年のテーマ。
①「大盾」(:4)
* こうした時代に大切なのは、「いと高き方の隠れ場」「全能者の陰」「避け所」「とりで」「翼の下」「大盾」と言われる神の真実に身(魂)を寄せることである。これを1年かけて、神の「大盾」に安らぐ信仰を、養い、不動のものとしたいと願っている。
②神の視点に立つこと。
* 神の御守りは、この世のレベルではなかなか見えない。どうしても聖書が教える神の視点、信仰の目で見る必要がある。この地上には使命(用)がある限りはとどまる。使命が終われば、主の御許に帰っていく。この視点での守りである。
③神の御守りは確かである。
* 私たちが神の国と義を第一にしている限り、神は責任を持って守ってくださる。このシェルターの中にいる限り、私たちは何にも怯えることなく、思いっきり働くことができる。足の骨折も、神が業をなさるための方法であったことを知ることができた。
<結論>*信仰者はこの世の混迷に目を留めて不安がることはない。むしろ神に目を向けるべきである。神がなさろうとすることが見えるところまで、目を凝らして見るべきである。そして神が動く方向に私たちも動き、御守りの中にい続けよう。(A.S.S.)

 

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