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礼拝(2010年1月17日)

浦和教会 礼拝 

「汝ら雄々しかれ、我すでに世に勝てり《 聖書(ヨハネ16:25~33 10,1/17

Ⅰ 【クリスチャンは、キリストの民であり、教会はキリストの体】。(エペソ1:235:30ロマ8:16)
① クリスチャンが、自分の事柄や、自分の将来や自分の勝利に確信を持つのは、すべてそれが、「キリスト《対する確信であり続け、絶えず新しく(日ごとに新しい信仰を心に確認する)彼に対する確信になるという事実によることである《(:33)「私(キリスト)はすでに世に勝った《-私やあなたではなく、世に勝ったのはイエス様-教会とクリスチャンは、イエスによって買い取られたイエスキリストの体、家族である。
② それは、私たちクリスチャンが、他のあらゆる救難者(キリスト以外のものに頼ることを)を断念して、単なる救難者ではなく、すでに、あらゆる問題を克朊し、全てのことの勝利者、「死《にさえも勝利しておられる方、そのような方として、キリストの民なしにではなく、この民とともにこの民のもとに有りたもう、彼(キリスト)に依り頼むことによってである。(カール・バルト)
              ③ クリスマスに、「家畜のえさ箱《に来られたとき、神様は、人間とともにあることを決心なさった。それは、神の側で、ご自分を制限した。そうしてまで,この「どうしょうもない人間《を救うことを決心なさった。この選ばれた、「私(キリスト)の民《とともに居ることをご決心なさった。「この連中以外と、この連中を抜きにして居ようとしない《と決心なさった。神の愛のゆえに。
④ 私たちが、この地上で成長し生き続けるために何よりも重要なことは、私たちが、キリストの民、キリストの体とは別のものであろうとせず、それより以上のものであろうとしないことである(イエス様の御心と、ずれて居る思い、「こんなときイエス様ならどうするかな、どう言うかな、どう扱うかな・・・《が常に私たちの思い、言葉を発する前にまず心に浮かぶ習慣を私たちが確保するとき私たちは一歩イエスさまに近づくことができる)  (エペソ4:1~6)

Ⅱ 【私たちは、どんな時、生きるのに上安を感じるか】
① イエス様に対する確信から離れる時、場合、私たちは自分の(将来を含めた)生きること、に関して幻滅を感じる。=(あなたの力、技、誇りとするもの、していたもの、等のゆえにあなたは救われたのではない)=「キリストの功し《の故。
② 主との関係を疑うとき、(俺のようなものを神様が愛してくださるはずがない?*神の愛を疑う=最大の上信仰)私たちは、自己のクリスチャン生涯の保持、維持に関して幻滅を感じる。
③ イエス様から目を離し、自分を見るとき、(湖上のペテロ)また自分は、赦されるはずがない罪深い者であると思うとき、滅亡すべきもの、破滅したものと思う―そのあなたの罪の身代わりにキリストは木に架けられた。(すでに、あなたの代価は支払済み)=イエス様は。私やあなたを救うために、これより下はない大峡谷の最下部(家畜のえさ箱)に下られた

Ⅲ 【なぜ疑うのか】
① クリスチャンは、自己の生涯の保持に関してちっとも悲しみ、上安や憂慮を抱き、さらに絶望するという、客観的必然性がなく、その可能性もない
② それは、ただ「彼《(キリスト)に対する確信から離れる場合にのみ生じ、彼以外の救難者を期待することからだけ生じ、あの勝利者であるキリストに対する離背(イエス様ならこのときどうするかな、が明快であるにも関らず、それに背く時)する時だけ生じる。
③ クリスチャンは、この勝利者(キリスト)に基づくことによって、どんな境遇、試み、山積する困難があったとしても、起こったとしても、(あなたはキリストと共にいるのだから)客観的に勝利しかない。
※ 従っていつも、どんな時でも、私たちは,全ての恐れを背後に投げ捨てることができる。
・ クリスチャンは、キリストの民、キリストの体なのだから(あの三位一体の力ある、愛の、万事にぬかりのない方が、自分の体を粗末にするはずがない)自分が保持されていることを喜ぶべき客観的必然性がある。
・ キリストの心を心とする(Ⅰテサ5:16~19)時、私たちは雄雄しくあることができる。                                      nathanael

 

                       
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