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礼拝(2010年2月7日)

『信じるなら、そのとおりに』(マルコの福音書 11章20節~25節)) 2010.2.7.

      「この祈りは聞かれるのだろうか?」という疑問や質問に遭遇するとき、私たちはどう答えるだろうか。そして聖書は、イエス・キリストはなんと答えているのだろうか。この箇所には、イエスが単純明解にその答えを示している。

Ⅰ 枯れたいちじくの木
①前日の出来事(11~19節)
エルサレム入京の翌朝、ベタニヤを出たイエスが空腹からいちじくの木に実を探された。しかし、時は春、実はなかった。そこでイエスはその木に「今後、だれもおまえの実を食べることのないように」と告げられた。翌日そこを通ると、その木は根まで枯れていた。
②奇跡の真意
いちじくはユダヤ人を象徴し、葉ばかり繁った木は外面的な華やかさばかり目立ち、神を喜ばす内面的な実を欠いている姿を示し、その行く末は滅びであることを示された。彼らが祈りの家であるべき神殿を商売と強欲の場にしていた(15-19)のは、顕著な例である。
③その力はどこから
枯れたいちじくを見たペテロは、イエスののろいの言葉がその原因であると考えていた。奇跡が起こるとき、人はその力の源を探し始める。そして神秘的な力を操ると思われるものに憧れ、その力に与りたいと思うが、そこに魔術と偶像礼拝の危険も潜んでいる。

Ⅱ そのとおりになる信仰
①神の力によって
神は全能であって、その世界では信じたとおりになるのが原則である。イエスはペテロの言葉に対して、即座にこの奇跡が神によるものであり、だから神に祈るように促された。神にしか動かせない「山」に直面するとき、私たちは祈らずにはおれなくなるはずである。
②疑わずに信じる
「自分の言ったとおりになる」と疑いなく確信するのは、人間の欲望・熱心さや堅い決心ではなく、これが神の御心と合致しているという肯きからである。この肯きが与えられるまで、私たちは祈りのうちに願いの内容を吟味し、神の御心との摺り合わせる必要がある。
③答えの先取り
神の御心に沿って「祈って求め《ている確信が与えられたなら、答えは「すでに受けた」も同然であり、あとは実現を待つだけである。平安と喜びをもって、神に「答えてくださってありがとうございます」と祈れる神中心の信仰を、神も喜んで祝福してくださる。

Ⅲ この信仰が働くために
①神様と自分の一致
「祈っているとき」に思い起こされた対人関係でのトラブルは、神からの語り掛けである。対人関係の中に潜む罪があるとき、神は全能の御手を動かそうとはなさらない(イザヤ59:1‐2)。神は、ご自分と全く一つになっている者に御力を現される(Ⅱ歴代16:9)。
②試金石になる赦し
赦さない者は、自ら赦される必要を感じていない。他者を赦すためには、まず裁きの座から降りて御前に遜らなければならない。この謙遜な心が神に祈るためには上可欠である。過去の恨み・憎しみ・怒りにこだわると、神の前に祈れなくなってしまう危険に陥る。
③まず求めるべきこと
他人を赦さない「私」の罪を赦してくださるように父なる神に祈り求めよう。この方は罪を「赦してくださる」方である(詩篇130:4)。御子キリストを十字架につけて、私たちの罪を赦す道筋も既に用意しておられる(ロマ5:8)。素直に大胆に祈り求めてみよう。

<結論>クリスチャンには、この罪の赦しを求める祈りが聞かれた経験があるから、その後に来る様々な困難・課題に対しても、神に祈ることができる。私たちは「神に聞き届けられる祈りをささげているだろうか?」 (H.M.)

 

                       
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