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礼拝(2010年4月18日)

『勝ち得て余りある人生』ローマ8章31~38節)2010.4.18.

序 「つばさ」4月号に、新垣先生は,「最高の人生でした」と書いています(過去形?)

Ⅰ 【「十字架の贖いとイースター《の事実】
①「キリストの功し《(イエス様の手柄、吊誉、勲功、働き)によって私たちの過去の罪の代価は払われた。ゆえに「死んだ後、誰もが裁かれるとき(使徒信条)《私たちの罪の責任は問われない。「代価は支払済み《
②イエス様は、受難週の「聖金曜日《に十字架に架かられた後「陰府」に行かれ、「土曜日」には、イエス様がこの世に来られる前に、死んだ凡ての人々に、福音を伝えた後(エペソ4:8)「日曜日」の朝、『よみがえり復活した』という事実。そのことを記念するのが「イースター」だと教えられましたが、この宣教は旧約の、イエス様が来られる以前の人たちのためでした。今日の我々には、関係がない(?)
③『イースター』後「主」は私たちに福音を宣べ伝えるように命じられて、天に帰られました。イエス様の福音に預かり、生きているうちに「救われた」クリスチャンは、「パラダイス」に行くことが保証されています。故にクリスチャンは、もはや「死」をも怖がる必要がない。では、上幸にして「福音」を聞くチャンスのないまま、死んだ、現今の我々の近親者はどうなるのか。
カトリックの「煉獄」を否定した「プロテスタント」は、この問題に対する明快なこたえを持たないまま今日に至っている。特に日本のクリスチャンは、親兄弟、連れ合い等、極親しい身内にこの問題を抱えている。作今この問題に対する「解答に近いかな」と思える本を手にするチャンスがありました。「陰府(ハデス)」と「地獄(ゲヘナ)《は違う、別の場所だ、「陰府」は、上幸にして「福音を聞くチャンスのなかった人達が最後の審判を待つ間、待機しているところであって、そこにも福音が伝えられる(黙示11:3)。審判(裁判)の後、それでも信じない、「イエスを『主』と認めない」頑迷な人《が、最終的に行くところが「地獄」だというのです、異論もあるようですが、「言いがたき嘆きを持って執成したもう愛の主」のゆえに、「これも有りかな《とも思わされています。いずれにせよ「主」が「陰府」より帰り「死」さえも我々には恐怖を与えるものではなくなった。

Ⅱ 【「主《は「罪の力」からの解放者であるか?】
①『ペンテコステ』*主が天に帰られてから50日後、待ち望む弟子達の上に聖霊が注がれ、弟子たちは、力を与えられ、ただ泣くことしかできなかったペテロ達が、誰をも恐れず説教し、堂々と、福音を述べるものに変えられた。(使徒2:14) これは「主《によって約束されたことであった(使徒1:8)
②これは、現在の私たちにも約束された「罪の力」に打ち勝つことのできる「神の力」である。これは、「昨日も今日もとこしえに変わらない」(ヘブル13:8)「聖霊による神の力」
③然るに現実は,どうであろうか.「ようやっと生きている」状態であっては「主の証し人」には相応しくない。

Ⅲ 自分を時間的に、人生の終着点に自分をおいてみて、客観視する事によって今の困難は、「成功のための一里塚《であることがわかる。山の頂上に立ってその展望を楽しんだ後、いま辿ってきた道を振り返ってみると、あの苦労は、このすばらしい「栄光」を体験するため」であったことが良くわかる(ロマ8:18)。
 主を信じる人には栄光に満ちた、成功の人生が約束されているのです。
※「良い人生だった」という結論をイメージすると、今の困難が、「希望《への「訓練のとき《(ロマ5:3,4)であることがわかる。「神を愛する人には、神がすべてのことを働かせて(困難さえも)万事を益としてくださいます(ロマ8:28)。「勝ち得て余りある人生は神の約束(:37)ごと《であり、わたしもその証人です.(n・t)

 

                       
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