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礼拝(2010年6月20日)

『信仰者の失敗』ヨシュア記7章2~13節2010.6.20.

*序 「聖潔められたクりスチャン《には失敗はない?

Ⅰ 【ヨルダン河で】、それまでの古い人は、死に、その記念の塚が、川底と、新しい生活の始まる地「ギルガル」に立てられ、神様にすべてを委ね、神とともにある生活がスタートした。
① エリコBC9900頃から農耕民族が住み、BC8000頃、城壁で囲まれた堅固な要塞の町が立てられた。(新聖書辞典) イエスの時代「ザアカイ」はここの住民(ルカ19:2)
② エリコでは、慎重に偵察隊が送られ、ヨシュアは、神に祈りもとめ、「万軍の将《の助けを得(5:14)、神の指図を得た戦いの結果、さしもの堅固なエリコも、たちまちイスラエルの前に崩壊した。
③ エリコより小さな町、「アイ」での完敗(ch6)―恐れていた、エリコでの以外に簡単な(に見えた)勝利は、「謙遜」を忘れさせ「神の言葉への従順《を忘れさせた。
敗因は、網を絞り込むようにしぼまれ、ついに「アカン」の罪が炙り出され処置され(ch7)今度は神の導きを得ての、慎重な策略により、再度の挑戦によって勝利した。

Ⅱ 【クリスチャンの連戦連勝】は有りうるか*大いに有りうる(ロマ8:37)としても、また失敗も現実。
①「聖潔《られた者の失敗=経験上足からの無知、あるいは過失による罪は、止むを得ないとしても、やはり、上注意を反省し、神に知恵を求めながら、神を信じて(ch8)再度、神を信じて(8:1or1:9)挑戦するチャンスは閉ざされていない。
②神は悔いるものを軽しめ給わない。「聖潔め」は、失敗によって失われない(罪の原因を象徴する「アカンとその汚れに関係するもの」は徹底的に処分される必要があったが、「イスラエルの民」すべてが葬られたのではない。(エゼ33:11,18:32)、エゼ22:11
③ 誘惑により意識して犯してしまった罪-これは、なぜ犯してしまったのかを鋭く追及する必要がある。、それが、あなたの性格から来るのか、この世につける欲(死んだはずの「我《旧い「我」)が息を吹き返した?。「俺が、俺は」磔殺されたはずのゾンビが息を吹き返した?)を徹底して「原罪《を、しぼりこみ、捜しだし、今度こそ「完全に息の根を止める」(7:25,26)

Ⅲ 【絶望は愚か者の結論】
①ヨシュアは絶望のあまり一日中地にひれ伏したー律法主義者、自分の行いによって、自分を「義」としようとする人(自分の力で「義」を勝ち取ろうとする傲慢=「キリストの功」「十字架の贖い」「キリストイエス様の、あのお苦しみlを無駄なこと、と主張、否定する生き方)は、一度躓いたときには、ほとんど絶望の淵に追い込まれる。
②ヨシュアは、今までの戦いの勝利をいつの間にか「己の働きによるもの」と勘違いをしている?。
「エリコ」の戦いの前に、恐れて神を求めた結果「神による勝利」であったことを、忘れた?。
 漫然とした、緊張感のない戦い、活き様に対する警戒。
③ 罪は、一度伝染すると絶望的とも言えるほど、伝染力が強い。それらは徹底的に滅ぼし つくされなければ、取り返しのつかない(全イスラエルが滅びる)ことになる。(6:18)

※・神の声、御言葉、神の意思の軽視。=神様との契約の軽視
「エデンの園で、アダムは、神様のみ声を重要視しすべきとは考えず、軽々しく考えたに違いない」-ジャン・カルビン
・罪-意識下にある罪*直ちに悔い改め、神様にお侘びをし、もう一度失敗する前の信仰の位置(物理的場所ではなく、「私は今日から、神様を信じてまいります」と信仰の決断をした、あの新鮮な信仰の位置)。これは、「ギルガル」に戻るのではなく、その場に合って、神への信仰をさらに増し加える。さらに信頼する。 「賽の河原」⇔主の似姿への「信仰のstep3《   ピリピ3:12~14
            *適用ー慣れた自動車運転も漫然と運転していると、取り返しがつかない大事故を引き起こす可能性がある。―普段のクリスチャン生活が漫然となっていないか。時々思い返してみる必要がありはしないか・・・
・礼拝に臨む姿勢-永六輔氏と女子アナウンサーの会話。 -みのもんだ氏―     (n・t)

 

                       
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