[戻る] ホームページ 礼拝説教 2010年の説教

 

礼拝(2010年7月18日)

『思い煩うな』ピリピ4:4~7,レビ記1:1~4) 2010.7.18.

序 旧約時代の礼拝は、天幕(会見の幕屋)でなされ、民は、必ず供え物を持って神に近づき、祭司、大祭司が、それらを厳格に律法に則って行われた。

Ⅰ 【神殿の供え物】
①藩祭(1:4)―(全焼の供え物)=神と贖われた民(クリスチャン)との関係の更新、維持のため。感謝と信仰、崇敬の思いを持って天の主を喜ばせる贈り物として進呈された。
素祭(2:1)*(感謝の供え物)=穀物のささげ者、塩で味付けされた。(パン種をいれない) その一部が取り分けて、焼き尽くされ、残りは祭司たちのものとなった。
酬恩祭(3:1)*(平和の供え物)=牛、羊、ヤギなど。一部は、「主に捧げる食物」として焼かれ、残りは祭司たちと、捧げた者とが一緒に食べた。
これは、神と人とが、一緒に食卓を囲んで交わることで、神と人間との一致、調和、完全平和が強化された。
罪祭(4:3)*(罪の贖いのための供え物)=社会的立場によってささげ物に違いがある。
全会衆と大祭司、が律法違反の罪を犯したときは、その一部を祭壇で焼かれ、他は宿営の外に捨てられた。
愆祭(5:14~19ch6)*(罪過のための供え物)=過失によって神、隣人に搊害を与えたとき、1/5を付加して償う。
②旧約時代の罪の身代わりは、牛、羊、ヤギなどの家畜が、人間の罪を担って奉紊された。天幕や神殿でそれらの奉紊は、祭司らによって執り行われたが、祭司も祭司長も人間であり、それゆえまず最初に、彼らのために、罪祭、愆祭をささげなければならなかった。
これらは、家畜であり、神に似せて作られた、人間のそむきの罪の代償としての価値は限定的であって、毎年行われなければならなかった。レビ記は、完全ないけにえの到来、完全な救いの契約者の必要を大声で叫んでいる(w注解)
③新約時代になって、しみも咎も汚れもない「神の子イエス・キリスト《主が、凡ての人間の罪を担って、十字架で罪祭、愆祭のいけにえとなって下さった。
・天幕や神殿では、最初に罪祭、愆祭がささげられ、藩祭とそれに添えて素祭、それから、神との交わりの酬恩祭が執り行われた。現今の教会での食事と交わりは、これに相当する。

Ⅱ 【手を置く】レビ16:21,221:43:24:4)。
①アロンは、ヤギの上に両手を置いた。*その動物と一体になり、ヤギに人間の罪を転嫁させて一頭の羊は、殺され、もう一頭の羊は、自由にされ、荒野に放たれた。
我々も、主の十字架によって罪赦され、完全に自由とされたのである。
②主は、罪のための完全ないけにえとなってくださり(罪祭)マタ、凡ての賠償を(愆祭)完全に終わらせてくださった。
③これらの供え物は、一度捧げられると、再びそれを祭壇から取り戻すことはできなかった。
・これらの捧げ物は、牛、羊、ヤギ、いえばと、すずめなどでも「可《とされるが、それは、経済的を理由に、捧げることを、拒むことは赦されないことを意味する。

Ⅲ 【重荷を主にをゆだねる】
①人間に内在する最高の敵=自我(自分を指差して誇りたい心)=サタンに移入されたサタン的性格。主に栄光を帰するべく召された者にふさわしくない、相反する自我、原罪)すでに祭壇に葬られたはずの自我、それを再び祭壇から取り戻すべきではない。
②パン種=少量で、発酵して膨らませる(内容のない者が、少々の事を大きく見せ、さも多くの「賜物、神様から頂いたもの」を持っているごとく見せようとする)堕落、を表徴する。
「パリサイ人のパン種」律法を表面的には守っているがに見えて、その実、神の求めたもう愛の標準にとうてい満たない、己を誇り、他者、弱者を蔑む、律法主義「白く塗りたる墓」。
③「クリスチャン《=我らの主イエスによって神との和解が成立している、罪の責任を問われず(罪祭)、その賠償責任を完全に免除(愆祭)されている。

<適用>*神の前に捧げたもの、「全ての心痛と上幸、《とを、主に委ね、主がこれを受け取ってくださったと信じ、二度とそれを取り戻さない。
 それでもいつの間にか、マタ思い煩いに取り囲まれていることを発見したときは、その都度、祭壇(あなたのすぐそばに居られる主)を意識してもう一度(二度でも三度でも)委ねる。(慣れるとそのことが、早くできるようになる。=平安が心に戻ってくる)        (n・t)

 

                       
2010年度説教要旨2009年度説教要旨2008年度説教要旨2007年度説教要旨
2006年度説教要旨2005年度説教要旨2004年度説教要旨
聖日礼拝の手引き 用語の解説