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礼拝(2010年8月1日)

『信仰による義人は生きる』ローマ人への手紙1章1~17節エレミヤ書1章10節) 2010.7.25. =第一聖日伝道礼拝=

序「ルター《*「神は、我々自らの義や知恵を通して我々を救おうとは成されない。我々自身の外から来るものを通して、我々から出たものでもなく、我々によって生み出されたものでもなく、どこか他の場所から我々に来、この地上に生じないで、天から来る義を通して救い給もう。それゆえ人間自身の個人的な義は、第一に抜き去られなければならない《。

Ⅰ 【エレミヤ書の概観(旧約時代)】
①エレミヤの召命(bc627)―北のイスラエルを滅ぼした(bc722)アッシリヤ帝国の末期、新興国バビロニヤが勃興し始めた時代。
   ヨシヤ王の宗教改革も民衆の心からの改革にまでは及ばず、皮相的なものであり、「神の裁きの杖としてのバビロン《による懲らしめの対象になることは免れないことを警告し、予言した。
②予言どおり、3度の捕囚を経て BC586エルサレムは、バビロンによって滅ぼされ、破壊された。
しかし、バビロン捕囚(70年間)を経て、「残りの者」は、エルサレムに帰り、新しく創りかえられた「神の民として建てられ、椊えられる、再起する」という喜ばしい予言をする。
③新バビロニヤ帝国も BC539 ペルシャのクロス大王に滅ぼされ、エレミヤの予言どおり、ユダは捕囚から開放され、エルサレムに帰還し、エズラ、ネヘミヤらのリードのもとに、「新選民」として再びエルサレムに椊えられ、神殿も再建された。

Ⅱ 【壊し、建て、椊える(新約時代)】
①エルサレムに帰還し、神殿を再建した民は、後年、ギリシャに支配され、一時期のマカバイ王朝による独立の時代を経て、ローマに支配された。
「ローマからの解放を神に求める民《*バビロン捕囚の反省から、律法を厳密に守り行うことこそが、神の御心に適い、それこそが、「かつてのマカバイ王朝による独立国」の再建と信じた。が、その神観は、相も変わらず、エレミヤが嘆いた「形式宗教」であり、律法学者、パリサイ人ら、宗教家たちは、己の義を誇り、弱者を蔑んだ。そこに、満を持して、主イエス・キリストがおいでになった。
②神である主が、壊そうとしたものー宗教家と称する者たちが、「律法による自分の義」(それを守れない仲間を蔑む)で、神に受け入れられようとする、間違った、的外れ(罪の原義)な「神の民」の宗教観。しかし彼らは、その「神のみ子、キリスト」を十字架にかけ、神に呪われた者として退けた。
③エレミヤが、ヨシヤ王の宗教改革後に見、嘆いたのもまさに、この「形、行いだけで、完璧であろうとする律法主義、形式宗教」である。神である主が「建て、椊えたいものこそ、神を愛し、己のごとくに隣人を愛する本当の愛の神の選民」(マコ12:31)である。

Ⅲ 【聖書は、旧約、新約両方で、完結する(教会時代)】
①キリスト教を迫害し、ステパノの殺害に関わった熱心なパリサイ人パウロ、彼も、自分の目には、鱗の如きものがあって,神様のご意思を間違って見ていたことを示され(使徒9:18)、ロマ書他の書が書かれた。
②正統派を主張する「カトリック」95か条の提題をした「マルチン・ルター」もロマ書の序文によって律法的行いによる「自分の義」が人間を救うのではなく「天より、外から与えられる神の義」こそが神が定めた「人間を救う唯一の義」であることを発見した。
③旧約聖書は、それ自体では、完結せず、完結されるべく、先に何かを予想し、それを前提にしている。旧約聖書は、何かを予表し、期待させ、その行く先は、キリストであり、旧約聖書は新約聖書によって完結する。
旧約聖書は、新約聖書の土台であり、新約聖書がその上に立っている。土台だけでは完成しないし、新約聖書だけでは、宙に浮いてしまう。(いのちのことば社、新キリスト辞典)

※壊すべきもの、建て椊えられるべきもの。
アダムたちが自分を覆うために自分の手で作ったイチジクの葉の衣は、動物の犠牲による神から与えられた、毛皮に取り替えられ、自分の手の技を誇ったカインの捧げ物は神に受け入れられず、人間の力で天に届こうとした「バベルの塔」は、壊されました。
 律法主義は、人間を罪に定め、信仰によって与えられる義は、人を生かします。   (n・t)

 

                       
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