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礼拝(2010年9月5日)

『パウロの足跡を訪ねて』ローマ1章1~17節エレミヤ1章10節) 2010.9.5. =トルコ旅行報告礼拝=

「パウロの足跡《

Ⅰ 【旅行行程】(毎日デボーションが行なわれた)。
第1日(8・22)*ローマ着後、イエズス会総本山「ボン・ジェズ教会《*「フランシスコ・ザビエル《(1549日本上陸約2年の宣教活動)の『右手下膊』(かはく*ひじと手首の間)が残されている。() 
2、3、4日マルタ島*パウロが囚人として、ローマに送られえる途中船が難破し、たどり着いた島 (使徒27~28:10)(青の洞門2、聖パウロ教会、地下墓地)
5、6日―トルコ・イスタンブール~エペソー聖ヨハネ教会、マリヤの家
7日―パムッカレーヒエラポリス、石灰だな,インジュミナ*レ神学校(イスラム)
8日―車中礼拝―カパドキヤ(ニカイヤ会議【325年、三位一体論の確立】)、値下都市、カーペット工場、きのこ岩
9日―カパドキヤ→イスタンブル→(ギリシャ)アテネ
10日*アテネーアクロポリス遺跡、アレオパゴス(知られざる神に)
11日―アテネ→ロ*マ、バチカン市(サンピエトロ大聖堂)、カタコンベ
12、13日―帰国

Ⅱ 【パウロの生涯】
①小アジア・タルソ(現トルコ)で生まれた。
②アンテオケを伝道旅行の拠点とした。
③ダマスコ途上で主イエスとであった

Ⅲ 【囚人としてローマヘ】
①第一次伝道旅行―バルナバと、彼の従兄弟マルコ・ヨハネが、キプロス出身だったことが、最初の宣教地に選ばれた理由のようである。→アジアのアンテオケ
②第二次伝道旅行*マルコが先の旅行で、途中で離脱したことから、バルナバとパウロは烈しく衝突し、別行動をすることとなる。パウロは、シラスと小アジアを西へ進んだ。
 「マケドニヤ《の幻によって、パウロはヨーロッパへの伝道を開始する。
③第三次伝道旅行―やはり小アジアのガラテヤ→エペソに二年間滞在した、ユダヤ人との抗争から、それまでの「ユダヤ人のシナゴーグでの説教《は禁じられ、ツラノ(哲学者)の講堂で福音を述べ伝えた。このことは、福音が、ユダヤ人から異邦人伝えられる機会を与えた。
アルテミス(ダイアナ)神殿で、銀細工人「デメトリオ《との抗争(使徒19:23~41)などもあって、実際には、3年近く滞在したようである(w註解)

Ⅳ 【伝道旅行】
①パウロ5回目となるエルサレム訪問は、「異邦人(パウロの弟子、トロピモ)を神殿に入れた《と称する「ユダヤ人《との抗争から、エルサレム全体の騒動となり、パウロは兵に捉えられ、数年後、「ローマ《へ行くことになった。
②護送船が難破し、船は、マルタ島に漂着し、土地の長官「プブリウス《の病を癒した事から、彼の手厚い介護を受けることとなり、マルタ島は、ローマよりも先きに福音が伝えられることとなり、今もプブリウスの吊を冠した教会が現存する。
③ローマで最初の二年間は、「軟禁《状態であり、福音を伝えることができた。
ローマ皇帝「ネロ《によるローマ大火の嫌疑と、新しい宗教を発明して、ローマの秩序を乱す「ローマへの反逆《との二つの嫌疑をかけられた。先の嫌疑は、逃れられたが、後の嫌疑は、「死を免れ得ない《ことを「パウロ《は察知した。
「パウロ《は「ローマ《で処刑されたと伝えられ、「聖パウロ教会《にその遺骨が残されている。

※「パウロ《をはじめとして、全世界に散っていった「宣教師《たちの働きによって、地球上の全人類に、福音が、宣ベ伝えられ,それは今や我らに委ねられていることを実感するたびでした、事故もトラブルも無く守られました。皆様のお祈りを心から感謝します。       (n・t)

 

                       
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